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Don"t be too hard on yourself.ーII

「Don"t be too hard on yourself.」は、以前「こんな英語表現」のカテゴリーで書きました。この時は、英語表現として書いたので、あっさり書きましたが、今日はもう少し突っ込んで書きたいと思います。



最近はだいぶ多様化しているようですが、日本の伝統的な家庭((社会も)教育は、日本という単一民族の単一文化の中で、その社会の規範から外れないようにということが、根幹に強くあったと思います。「出る杭は打たれる」「人に迷惑をかけるな」「世間に後ろ指をさされるようなことをするな」「世間様がどう思うか」等々。

「躾不在」「親からして基本的なマナーを守れない」ということも言われることが多い昨今ですが、でも、このメンタリティは日本人の深層心理に深く刻まれ、脈々と続いていると思います。最近のKY(空気を読めない)という言葉の流行、1,2年前に記事でも書きましたが、子供達の人気者の条件のトップが「空気を読める」ということであるということにもそれが表れていると思います。

世間という言葉があまり使われなくなった代わりに、大手を振るうようになった言葉が「空気」です。実際にあるのかどうか確かめられない、見ることも触ることも出来ない、誰がそれを支配しているかも曖昧、責任も曖昧、実体が不明なまま個を押しつぶす機能は全く同じです。周りの空気が苛めなら、それを読んで自分も苛めに加担するというような形で、苛めを助長する土壌を生み出すものにさえなりかねません。

日本人には「空気」({世間」)に逆らうことへの怯えが根強くあると思います。個の自立への怯えと言っても良いでしょう。大勢で個をつぶすものに対するおびえがあるから、その大勢を早めに感知して自分の安全を図りたいというような怯えが、根底にあると思えてなりません。

そもそも、「空気が読める」ことはそんなに価値があることでしょうか。「空気が読めない」ということで、具体的に問題になることは、自分中心で周りへの配慮や思いやりに欠けるということだと思います。それなら、「自分中心の考え方をするな」とか「思いやりを持て」とか、そういう言葉で語られるべきで、空気を読むかどうかには倫理観も哲学も自立もなく、大勢の心の動きを読んで自己保全を図ろうという、一種の日和見以上のものとは思えません。

大東亜戦争に突入して行ったとき、特に最初の段階で日本軍が華々しい戦果を挙げていたとき、国民は熱狂的に支持したのです。「欲しがりません、勝つまでは」と言い、「非国民」として戦争に積極的でない人々に辛く当ったのは普通の人々です。田辺聖子さんも当時は全くの軍国少女だったとか、あの城山三郎さんも自ら志願して海軍に行ったのです。当時の空気がそうだったのです。

それ自体が絶対化され盲目的に従うとしたら、「空気」は怖いものです。空気が日本を支配して、「一億総火の玉」になったことへの反省がなければなりません。山本七平さんも取り上げている問題です。空気が読めるかどうかが絶対の価値のように語られることには、大きい危惧を感じます。日本人の根底には社会(=親、自分を取り巻くもの)にとって「いい子」でありたいという無意識の要求がすごく強い分、自立した意識とは逆行しやすいと思うのです。

少し大回りしましたが、このように日本人の伝統的教育の根幹には個を否定するものがあります。先ず、周りの規範、社会の規範を身につけることが絶対になり、過剰な(?)自己主張は厳しく刈り取られます。先ず、自分を否定すること、それが第一に来るのです。極言すれば、自分に厳しく当る、自分を苛めることを奨励するものが日本の伝統教育の基本にあるのです。

日本人はアメリカ人に比べて、自分に辛く当る、厳しすぎる傾向が強いと思います。もちろん、こういう英語表現がある位ですから、自分を責めてしまう傾向はアメリカ人にもありますが、周りがこういう言葉で割合早く助け出してくれたり、日本人ほど自虐的な傾向は少ないように思います。日本人の私から言えば、「もう少し自分を苛めたらどうなの!そう野放しにしてないで!」って言いたくなるようなアメリカ人も結構居ますが、、。(笑)

空気が読めるかどうかなどに一喜一憂している限り、日本人は虚構の「国際社会」に追随する根性から抜け出られず、幻想の「国際社会」に振り回されるだけだろうと思います。国民を黙らせる為に、謝意決議までおねだりして自ら「空気」の醸成に励み、国際社会=アメリカの「いい子」になろうとする政治家を見るにつけても、、。

by bs2005 | 2007-10-06 02:10 | 異論・曲論  

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