「明るい人」 (「ぶんな毎日」からの転載記事) 

2005-01-31 01:50『ぶんな毎日』 掲載 カテゴリー「待夢(time)すりっぷ」



若い頃、私は明るい人というのは、幸せに生まれついて、何の苦労も悩みもない人なんだろうと思っていた。そして、明るい人にちょっと嫉妬していた。明るい人がちょっと嫌いだった、、。

そんな自分の考えを変える経験をした。今からもう25年位前、初めてアメリカに来る頃だった。

父のアメリカでの腎移植はその数年前位から準備が始まっていた。ただ、ずっとお呼びが掛からない。いらいらと待つ日々だった。そんな中で父もそう若くないのでそんなに待てない、長い飛行の後での大手術に耐えられるかという疑問もある。初めに聞かされていた大体の見通しだとそろそろの筈なので、ともかく見切り発車をしようという事になった。

夫は会社からの派遣地でもあった手術予定地に既に半年前に行っていた。会社の規定で家族は半年日本で待っていなければならない。その家族の出発に父も同行することになった。私たちの家で手術を待とうということになったのである。

そんな中で、母の喉頭癌が再発した。一度目の時は、何とか声帯を取らずに処理したけど、今度は声帯を取らなければならなくなった。母は若い頃、声が自慢の人だったのに、その声を永遠に失うことになった。当然延期を考えた。しかし、父の手術を一番楽しみに待っていたのも母であり、その母が行ってくれ、予定を変えないでくれという。それでそのまま、時間が過ぎて行った。

明日出発という日は、数日後に母の手術を控えている日でもあった。

真夜中になった。気持ちがどうしても落ち着かなかった。母の手術の時は居て上げたい。それに私の長女は母の初孫で、それこそ溺愛していた。彼女なしには一日も明けない、そんな感じなのに、その孫達にも会えなくなる。声を失った世界の中でどうして、その淋しさに耐えられるのだろう。そんな母を残して出発したくない、出発なんて出来ないと居ても立ってもいられない気分になった。

その頃、そんな状態の父母なのに、長男だからと祖母の世話を実家でしていた。母がそういう状態になってからは、私が世話をしていた。それで、私たちが出発した後は末弟夫婦が同居してくれる事になっていた。義妹は初めての子を妊娠中の身重だった。もう10ヵ月だった。何もかもが一緒に起きている感じの日々だった。

とにかく、弟夫婦が既に実家に来ていたので、真夜中、その弟の所に行って、「出発を延期したい。とても行けない。」と言いに行った。弟も賛成してくれるだろうと思った。

弟はこう言った。「お母さんが自分の事がありながら、お父さんとお姉ちゃんに行ってくれ、と言ったのにはすごい決意があったと思うよ。今、二人が予定を変えて、手術後に飛び立ったとしても、今度はお母さんはもう話せない人になっている。その時に別れるのは今より辛いかも知れない。もう一度身を切られる決意をしなければならない。二度もそんな決意をさせるのは可哀相だよ。お姉ちゃんの辛い気持ちは分かるけど、予定は変えない方が良いと思うよ。」と。

納得した訳ではなかったけれど、賛成が得られなかったので、そうするより他ないかもしれないと寝床に戻った。でも、何度もガバっと起きて、もう一度弟を説得しようかと思っては、思い直すという繰り返しの眠れぬ夜だった。

白々と夜が明けて、もう変更は効かない、行くより他ないと思った時、屠殺場に連れて行かれる牛はこんな気持ちだろうと思った。嫌で嫌で仕方なかった、、。時間が止まらないものかと本気で思った。 苦しい程本気だった。

出発前に皆で、病院の母を見舞に行った。その頃の母は『ギンギラギンにさりげなく』という歌が好きだった。良いね、良いねとしょっちゅう聞いていた。下手なアイドルの歌を、若くもない母がテープまで買って聞いている気持ちが分からなかった。

別れの日なのに、皆、気持ちを殺して、いつもよりニコニコと楽しそうに歓談した。母は嬉しそうに、孫達に「良いねぇ、アメリカ、楽しいだろうねぇ。たくさん、楽しんでおいでね。」と繰り返し言っていた。父にも「手術成功するといいねえ。良かったねぇ。」と何度も言っていた。父母は同志だからと固い握手を交して、いよいよ病院の玄関からタクシーに乗り込むことになった。

手術前の母はやつれて弱々しく見えた。でも、にこにこ、にこにことタクシーの中の私達に、軽やかにしきりに手を振っていた。淋しさも不安も、その一片も見せなかった。まさに『ギンギラギンにさりげなく』だった。その時、母がこの歌を好きだと言っていた気持ちがようやく分かった。母の決意だったのだと。

私は笑顔の私を母のまぶたに残したいと思いながら、ついに涙があふれてきて、その顔を見せまいと一瞬、顔をそむけたけど、顔をそむけたままの別れはしたくないと、また、泣き笑いの顔で母に手を振った。母は最後まで飛び切りの笑顔だった。

その時から空港、そして飛行機の中でもずっと泣いていた。母の笑顔を思い出す度に、どうしても涙が止まらない。泣き寝入りしては、又起きて泣く、そんな感じで疲れ切ってしまった。そんなよれよれの私を迎えてくれたのは、カリフォルニアの驚く程広く、どこまでも青い空だった。その空を見て、私はもう来てしまったのだ。もう泣いてもしかたない。泣くまい、、と思った。

その 初めてのアメリカで、回りの人に父母の事情を話すと皆に驚かれた。あなたは明るくてにこにこしていて、そんな事を抱えているように全然見えないと。でも、明るくしていたのもニコニコしていたのも、そうしないとたちまち涙があふれそうだったからだった。逆の表情を無理にでも作る事で、やっと自分を支えていられた。そして、そうすることによって、無理やりの明るさでも、自分の中からエネルギーが出てくる気がした。

私は明るく生きるというのは、一つの決意である場合もあるのだと知った。その頃から、私は明るい人が好きになった。
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by bs2005 | 2006-01-29 01:31 | 『ぶんな毎日』ダイジェスト  

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