分かってもらうということ

人と人との結びつきには、理解は不可欠なものだ。自分を分かってもらえるという事、分かって、受け止めてくれる人が居るということ、この喜びに、換えられるものはない、と言ってもよい位に思える。

その為には、理解してもらう為の努力は、きちんと払わなければならないし、理解してもらう為の、コミュニケーションの能力というのは、とても大事になる。その能力を磨くこと、その自分の能力を、真摯に検証することも必要になる。

努力なしで理解してもらおう、などという考えだけは持たない方が良い。以心伝心は美しくても、それに逃げてはいけない。

そういう原則は、きちんと踏まえなければならないけど、今日、言いたい事は、ちょっとそれとは違う。




理解してもらおうとする努力もしないで、理解してもらえないと、恨むのは言語道断だけど、たとえ努力しても、結果として、理解が得られるということには、あまり期待しないことだ。

努力したのに、と相手を恨んだり、自分を可哀想に思ったりしないことだ。努力の見返りを期待しないことだ。

人間は、分かり合えないものだと思っていた方が良い。理解されなくて当たり前、と思っていた方が良い。これは努力とは、別の次元の話だ。

そうでないと、あんなに伝えたのにとか、こんなに分かってもらいたい人に、気持ちが届かない、、と、常に、悲しい、辛い思いで、いなければならなくなる。思い詰めて、病気にもなりかねない。

人間は自分のことですら、本当には、理解できないもの。ましてや他人。親であっても、夫婦であっても、理解できることは限られている。違う親(同じ親でも、違う時期の親)に育てられ、違う環境で育ち、違う人生経験をし、違う感性を持ち、違う能力を持ち、違う個性を持ち、、、、。一人一人、違うのだ。

いくら言っても、分からないことは、どうしてもある。その場に居なければ、分からないことだって、たくさんある。夫婦のことは、夫婦の間でしか分からない。はたからどう見えようと。

その夫婦の間だって、全部理解しあえる、なんていうことはあり得ない。だから、親だって、兄弟だって、わからないのが当然。それを分かってくれないということを、悲しがるのは、エネルギーの無駄だ。

人と人とが理解しあうための努力は、出来る限りするべきだし、投げてはいけないけど、必要なことをした後でなら、相手が理解してくれなくても、気にしないことだ。

そもそも人と人とが、完全に理解できるということは、あり得ないのだし、理解する能力が、非常に限られた人もいる。それは頭が良いとか悪いとかには関係なく、人生経験にもよるし、その人の性格にもよってしまう。

自分の持つものでしか、人間は他を測れない。理解もどうしても限られてしまう。無駄な期待をしないことも、人生では、自分を必要以上に、痛めつけない為に、ものすごく必要な態度だと思う。


理解が得られたら、大もうけの丸儲け。大万歳!そういう気持ちで居た方が良い。理解されないのが当たり前、理解されたら奇蹟!と思っていた方が良い。だからこそ、たとえ少しでも、理解された時の喜びは、至福のものなのだと思う。
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by bs2005 | 2005-09-04 00:38 |  

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