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At Stanford

スタンフォード大学はアメリカでも屈指の大学です。そこの病院も超一流という事になっています。ここのキャンパスはだだ広いのです。歩いたら、そのごく一部でも数時間取られてしまいます。でも、実はキャンパスだけでなくその回りのキャンパスの数倍の広さの土地もスタンフォードのものです。全部入れたら、東京のどこかの区より大きいと思います。もとは個人のものだったのですから驚いてしまいますが、、。

それはともかく、今日はそこで毎年今ごろ行われる Bank of the West Classicの試合を見て来ました。ここは昼間はすごく暑くて倒れて病院に運ばれる人も少なくない位なので、もうずいぶん見に来ませんでした。夜のゲームですら、数年、、。

切符があるからと誘ってもらったので、重い腰を上げて行って来ました。下はスタンフォードのテニスのスタジアムです。マッケンローもここでやっていたのです。初めに見たのはビーナスの試合(準決勝)でした。調子が悪くて、負けるかと思いました。厳しいライン・コールがなければ、3つ続けて(全部で5つも)マッチポイントを持っていた相手が勝っていたところでした。

でも、そこからが例によって、ぎりぎりに追い込まれると野性が目覚める感じで切り抜けて、勝ってしまいました。自分でも「調子はすごく悪かった。でも何だか分からないけど、私ってどたん場に追い詰められると、何かのスイッチが入る感じ。」みたいな事を言ってました。そういうスイッチが私も欲しい!
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これはその後のダブルス風景。
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グラウンドの一つ。スタンフォードにはこういうグラウンドがいくつもあります。

(追記:この魔法のスイッチ、決勝ではついに入らず2セットで負けてしまいました。)
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by bs2005 | 2005-07-31 09:16 | 映像で見るアメリカ  

「きっと深い事情があるんでしょう」

カテゴリーを増やしました。英語だけでなく、日本語の表現でも感じることを書きたくなったので。出来れば素敵な日本語発掘という感じで行きたいですけど、私のことだから、こんなの嫌というのも載せると思います。(汗)

今日のは、この年になって、良いなぁと思う表現です。最近、「人を裁く」という事についての記事が続きました。何故かしら、最近、よく考えます。遠藤周作さんがこの事について、狐狸庵先生さんらしくない激しさで糾弾しているのにも、更に刺激されたようで、、。

前置きはともかく、人を裁く前に、こういう風に思うのは良い事だと思います。若い頃は、このちょっと知った風な言い方に反発を覚えた私ですが、今は謙虚で優しいなと思います。人の言動にかっと来たり、深い軽蔑を感じそうになったら、自分にそう言い聞かせたいと思います。

ところで、新カテゴリーを作ったついでに、私らしい嫌いな日本語表現。挙げたら、色々あると思いますけど、とりあえず、一つだけ。

「前例がない」という言葉です。そう聞く度に"So what?"(「だから何だって言うの?!」)と猛り狂ってしまうのですが、きっと深い事情があるんでしょうね。そう言う裏にはね、、。
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by bs2005 | 2005-07-31 02:21 | こんな日本語表現  

油断も隙もないヤツ

こういうヤツって、ずる賢くて、抜け目ないヤツって、普通思いますよね?
甘いっ!です。

本当に油断も隙もないヤツというのは、ちょっと目を放すと、とんでもないドジをするヤツなんです。そう、私のような、、、。

今日、非公開コメントの件で、あんな記事書きましたが、そもそもは、そういうミスをしても割合早めにーと言っても最近は半日位掛かってましたがー気付いたのと、公開コメントのつもりで書いてもそうダメージのない内容だった(と勝手に思っていた)ので、今の内に、お願いしておいた方が良いな、その内、何をやらかすやらと思ったからでした。

自分では、過去のその類のミスは皆気付いていると思っていたのですが、ところがどっこい!あちこちからそうじゃなかった、今だに気付いてさえ居ないのもあったと今さらに気付かされました。今の内どころじゃなかっった、、、。既に遅し、、。

こういうずる賢くない、抜け目だらけの人間の方が、悪意がない分、とんでもない事をしでかしがちです。

自慢じゃないです(自慢になる筈もありませんが)が、一月前ほどは娘夫婦とオットットを乗せて運転中、サンフランシスコのダウンタウンでしっかり赤信号を突っ切ってしまいました。あとの3人は恐怖で声も出ず、固まっていました。たった一人のいい年のおばさんの不注意で、もう一人のいい年のオットットはともかく、あたら将来のある若夫婦が命を失う所でした。

ことほどさように、本当に油断も隙もないのは、こういう類の人間なんです。皆さん、くれぐれもご注意下さい。目を放さないように。本人に注意能力が殆ど無いのですから、是非、回りの方の方で気を付けて頂きたいと、、。(真に盗人猛々しい話ではありますが)(汗、汗)

本人は知らぬが仏で、皆様にご迷惑をお掛けした事すら気付かずにいる事も、多々あるかと思います。改めてこの場を借りて、お詫びと警告に代えさせて頂きます。
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by bs2005 | 2005-07-30 08:14 | 能天気  

エキサイトブログの非公開コメントシステム

これはなかなか便利なシステムだと思っています。メール代わりにも使えたりするし(笑)。

ただ、非公開でコメントを送って頂いた場合、そのマークがそうでない公開のと、とても似ていて、老眼の私にはぱっと見ただけでは気付かないことが多いのです。内容に差し障りのあるようなものの場合は、これは非公開かなと確かめるのですが、そうでないような場合は、非公開で送られた事に気付かないで、返事に非公開で書かれた内容や名前を、公開で出してしまう事がたまにあります。後で気付いて削除したり、名前を直したりしているのですが、、、(汗)。

それでお願いです。こういう粗忽者なので、非公開のコメントを下さる時は、初めに「非公開です。」と書いて頂けますでしょうか?そうして頂けると有難いです。

返事の内容も非公開の方が良いと思われる時は、相手のブログに行って非公開のコメントという形で送らせてもらっています。非公開でコメントを送れないブログも結構あるようです。コメントのお返事を公開でして欲しくない方はメールアドレスを下さるか、返事をしないで欲しい旨、付け加えて頂ければ、更に有難いです。

基本的には、自分のブログか相手のブログ、またはメールで、どのコメントにも返事を出すことにしています。よろしくご了承ください。

追記:きゃあっ、今、もう一つ気付きました。最近、たて続けにやっていたのでした、、、(大汗)皆さん、申し訳ありません!私も気を付けますが、こういう粗忽者なので、是非「非公開」と断わり書き、入れて頂けたら嬉しいです。本当に粗忽者ですみません。ふぅっ、、、。
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by bs2005 | 2005-07-30 00:15 | メッセージ  

The fat lady is not singing yet.

面白い表現ですよね。これはものすごい不利な勝負展開の中で、勝負はもう付いた、終りに近いと思われるような状況で、「あきらめるな。まだ終ってない!」という感じで使われます。それ以外でも、使われるのかと思いますが、私が耳にするのはそんな時です。ビジネスの交渉などにも使えそうですが。

この場合の太った女性というのは、オペラで最後のトリに歌う女性の事です。(最近はスリムなオペラ歌手もいますが)その人が最後の方で歌い出したら、そのオペラが終りを迎えるという合図でもある事から、こういう表現をするのだそうです。

この表現を教えてもらったのは大分昔です。でも、私は使いません。fat ladyが自分の事を言っていると思われたくなくて、、、(汗)
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by bs2005 | 2005-07-29 06:16 | こんな英語表現  

「世界ってどうしてこう美しいのだろう」

この言葉は、どういう状況での言葉と思われますか。多分、素晴しい大自然の中で、思わずつぶやく言葉?そういう場合はよくあるかもしれませんね。そういう所でつぶやかれた言葉なら、多分、そのまま聞き流しているでしょう。

この言葉がつぶやかれた状況を知った時、私は胸を突かれました。この言葉はナチスのあの悪名高い、非人道きわまりない収容所の中で、過酷な重労働にぼろぼろになって満足な食べ物も与えられず、貧弱な衣類をまとって、力なく横たわっていた人がつぶやいた言葉なのです。粗末な薄暗い部屋の中で。

横たわっている時に、この世ならぬ美しい色をもった雲を見た時に、つぶやかれた言葉です。でも、その雲を見たからだけではないのです。そのすぐ後に、この作者は「強制収容所を経験した人はだれでもバラックの中を、こちらでは優しい言葉、あちらでは最後のパンの一片を(病人に)与えた人間の姿を知っているのである。」と。

一日たった一つの固くて小さいパンと水のようなスープしか与えられない状況。過酷な重労働を支えるにはとても足りないそのパン、命を支えるパンでありながら、命を支えるのにはほとんど足りていない命の象徴のそのパン、、自分が生きて行くのすら必死の、ぎりぎりの極限状況に追い込まれた人達の中で、それを人に与えられる奇蹟のような存在を目撃したからの言葉なのです。

ぎりぎりに追い込まれた時、人間はどうしようもない弱さ、愚かさ、醜さをさらけだしてしまう存在ですが、同時に、限りなく神に近い、圧倒的に輝く存在にもなり得ることを示せる人が、奇蹟のように存在する、、、安易に人間への絶望を語ってはいけませんね。人間が輝く存在になる自由を、誰も奪えないという事です。

この話はフランクル『夜と霧』の中にあるそうです。遠藤周作さんは、これを基に小説を書かれていますが、その中で、このパンの一片が、死にかけている人を救うことは多分もう無理だろう。でも、その死に向かっていく人は、最期に、自分に向けられた愛があることを知って死んで行くのだ、そのことの意味は計り知れないと書かれています。パンはそこでは命の象徴でもあると同時に愛の象徴、人間の尊厳の象徴でもある訳ですね。

そういう状況の中で、この言葉をつぶやける人にもまぶしい美しさを感じてしまいます。こういうのを読むと、ああ、もっと沢山、良い本を読まなければ、、と思います。
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by bs2005 | 2005-07-29 00:20 | 忙中閑の果実  

「縁」のダイナミズムの中で

人間は色々な縁の産物である。良い縁もあれば悪い縁もあるが、その全てを集約したものがその人を形づくる。

一番最初の縁、つまり、親との縁は決定的に重要である。往々にして、親との縁が良くないと、それ以降も、意図しなくても悪い縁、悪い縁とつながって行ってしまう事がある。自分にとって本当に良い縁か悪い縁かの判断が、出来なくなってしまう為でもあるように思う。

そういう悪い縁によって形成されてしまった自分を、良い縁に向かって踏み出すのすら苦労する人もいる。その反対に、最初の縁に恵まれて、自分では意識しなくても良い縁、良い縁とつなげて行ける人もいる。それがどんなに幸運かも気付かずに。

自分の人生が順調で、大きい過ちも犯さず生きてこられたとしたら、自分の恵まれた縁というものを振り返ってみる、そうして感謝の気持ちとともに、自分を形成してきたものが、そういう恵まれた縁なのだということに、謙虚な気持ちを持つべきだろう。

過ちを犯した人を、高みに立って裁くべきではない。その人が恵まれなかった良い縁、その人が過ちを犯さざるを得ない所まで追い込まれた、悪い縁への想像を持つべきである。自分が全く同じ縁の中で形成されて来たとしたら、自分は同じ過ちを犯さなかっただろうかという謙虚さを失うべきでない。

ひと昔前の話だが、私はある人から、理不尽な仕打ちの数々を、ただひたすら耐えてきた事を打ち明けられた。肉体への暴力ではなかったけど、女性として耐えられない、二重三重に屈辱的な形だった。彼女はそれを実に上手に隠していたので、はたから見たら、容貌にも恵まれ、彼女ほど幸せに明るく生きている人は居ない位に見えていたのだが。

その人が過ちを犯した。それを知った人達は後ろ指を差し、その人を村八分にした。目に見えぬ石を、彼女に向かって投げた。見えない石だけど、それはあまりに露骨で、彼女をずたずたに切り裂いた。彼女が必死で保ってきた明るさも、もはや演じられない位に。

その生活に勇気を持って終止符を打てなかった彼女を責めることは出来ない。彼女は父親によって虐待を受けて育った人でもあった。虐待を虐待として認識することすら出来ずに、それを受け入れて育った人だった。彼女は不当な仕打ちを受け入れるのみならず、自分に不当な仕打ちをする相手であっても、愛するより他に生き残れる道がないことを、幼い頃から学んで来てしまったのだ。悪いのは自分と思うように作り上げられて来ていた。

その理不尽に20年近く耐えてきた彼女が、その哀しみ、苦しみから逃れようとして犯した過ちは愚かだったかもしれない。弱かったかもしれない。しかし、そういう縁によって自分も形成されて来ていたら、自分はそういう過ちを犯さなかったと言い切れるだろうか。言い切れるとしたら、よほど傲慢な人か、人間の根源的姿を分かっていない人だろう。

後ろ指を差してはばかることのなかった人達は、彼女を形成してきた縁がどんなものだったか知らなかった。ただ、結果だけを見て彼女に石を投げた。たとえ、深い事情を知らなくても、過ちの裏には、そういう縁から生じてしまう弱さ、愚かさ、哀しさがあるのだという想像力を全く持たない人達だった。彼女の表面だけを見ていた。

その人達は、ブランドに身をやつし、高級な化粧品を使い、エステにも通い、美容に心を配る人達だったけど、その想像力のなさ、人間の根源的弱さ、愚かさへの理解のなさ、その事によって、自分達の醜さを余すところなく見せてしまった。「罪を憎んで人を憎まず」ーこの言葉の意味も、深さも全く理解できない愚かさも同時に。

私はどのような愚かな弱い人でも、寄り添う気持ちがある。人間は根源的にそういうものだからだ。ただ、「自分は正しい、自分は善だ、自分は過ちを犯したことも犯すこともないだろう」と、高みに立って人を裁く人だけは、軽蔑を禁じ得ない。そういう人は、自分の弱さ、愚かさにのたうちまわる人より、本当ははるかに愚かなのだ。人間がそういうものだという事すら見えていないのだから。

人を裁き、後ろ指を差す人々、、、もっとも醜く、愚かな人々だ。たとえ友人を全部失っても、私はこういう輩と友達にはなりたくないという激しい気持ちがある。もう何年も前の事なのに、私の生々しい怒りは消えない。その仕打ちによって、その人の心に出来た空洞は今だに埋っていないからだ。
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by bs2005 | 2005-07-27 23:49 | 異論・曲論  

医療者の持つ力

遠藤周作さんはこう書いてます。(『人生には何ひとつ無駄なものはない』より)


  医師や看護婦さんの患者にたいする姿勢や心くばりが病人の快復上、
  どれほど大事であり有効かを私自身の体験からお伝えしたかった
  からである。言いかえるならば私がその病院で受けたような医療者側の
  温かさは多くの患者にとって薬や手術と同じくらいの大事な治療方法
  であると私は言いたいのである。ー『生き上手 死に上手』

  患者の心理は敏感である。彼は病気の治療だけでなく、心の不安や孤独
  を慰めてくれるものに鋭敏になっている。わずかな医師の言葉や仕草の
  中にも、彼はこの医師が自分の心の不安や生活の心配までわかってくれて
  いるか、それとも病気だけしか関心がないかを微妙に嗅ぎわけるだろう。

  だから私は医学は科学の一つではあるが、たんなる科学ではないと思って
  いる。医学とは臨床に関する限り、人間を相手にする人間学でもあるのだ。
  医学という学を通してはいるが、医師と患者とには人間関係があるのだと
  いうことを絶対に忘れないでほしい。そしてその人間関係は医師と一人の
  苦しむ者との関係であるから、愛が基調にあってほしいと思うのは私だけ
  ではないだろう。ー 『春は馬車に乗って』

それをいつも忘れずにいるお医者さんだなぁと、いつも私が思っているお医者さんです。→「しゃがみこむ」

先生は今、新天地に移られたばかり。患者さんもまだ少ないとぼやいておられる。でも、こんな先生を患者が放っておく筈がないと私は信じています。前の病院を去る時には、患者に涙で惜しまれた方だもの。
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by bs2005 | 2005-07-27 09:54 | 賛辞のあなた  

野口聡一さん、無事のご生還を祈っています!

夢に文字どおり命を賭けられるあなたは素晴しい!

そして息子のその命懸けの旅立ちを、「わくわくします」と飛び切りの笑顔で見送る事が出来る野口さんのお父様、あなたも素晴しい!

あのコロンビアの事故以来、初めての飛行に飛び立つメンバーに、日本人のあなたが選ばれた事、とても誇りに思います。9年の大変な訓練を無事終えて、晴れの旅立ちですね。

素晴しい成果を上げて、無事帰還されることを心よりお祈りしています。
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by bs2005 | 2005-07-27 07:19 | 賛辞のあなた  

敷石のドミンゴ

ドミンゴとはスペイン語で日曜日という意味だ。彼は日曜日に生まれた。既に何人もの子供を持ち、生活に追われていた彼の親は、多分それだけの理由で彼をそう名付けた。彼の家は貧しかったが、信仰心の篤い家だったので、彼は修道士の道を進んだ。

でも、残念ながら彼は頭が良くなかった。それで神学もギリシア語もよく理解できない、出来の悪い修道士だった。

彼の町は、フランスからスペインの有名な聖地(サンチアーゴ・デ・コンポステラ)に向かう通り道にあったので、一年中、巡礼者達が通っていた。乾期はまだ良かったが、雨期にはぬかるみだらけになり、滑ったり転んだり、立ち往生する人達が多かった。

見かねたドミンゴは教会のえらい人の許可をもらって、そのぬかるみ道に、敷石を運んでは敷く仕事を始めた。そんな力仕事ばかりして何になる。修道士の仕事はラテン語で祈りを唱えたり、ギリシャ語で聖書を読んだりすることの筈と、非難したり笑う人は少なくなかったが、黙々とドミンゴは石を運び、敷いていった。

巡礼の人達は、ぬかるみを避け、少しずつ出来て行くドミンゴの敷石の上を歩いて行った。やがてドミンゴは死んだ。教会のえらい人達も亡くなり、ドミンゴを非難したり、馬鹿にした人達も今は居ない。でも、ドミンゴのその道は、今も残る大事な道だ。そしてその道を作ったドミンゴは聖人という指定を受けた。

その道のある町はドミンゴ・デ・ラ・カルサーダと呼ばれることになった。「敷石のドミンゴ」という意味なのだそうだ。

(曽野綾子さんの本↓に載っていた話をアレンジしてまとめました。こういう話が大好きな私です。)
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by bs2005 | 2005-07-26 12:06 | 忙中閑の果実