カテゴリ:待夢すりっぷ( 33 )

 

あの日の桜を偲びながら、、

母が亡くなって一年目を迎えました。当時書いた母の旅立ちについての記事(「桜の終わる季節にーもう一つのフィナーレ」)は思うところがあり、すぐに非公開にしましたが、一年目の今日、非公開を解こうと思います。そして、この機会に母との思い出の記事や去年亡くなった頃の思い出に関わる記事もここに一緒に載せます。

亡くなった当時は、母の見事な旅立ちへの思いや、長い闘病生活が終わり、もう苦しまなくてもよいこと、8年前に亡くなった父もやっと母と再会できて嬉しいだろうというような思いで、むしろホッとした気持ちの方が強かったのです。

でも1年経った今、母の不在を実感するようになり、両親とも、もうこの世の人でない淋しさ、心細さを改めて強く実感するようになりました。そして、もういい年なのに「親なき子」になってしまったんだな~と頼りない思いになったりします。そして若くして親を亡くされた方の寄る辺無さはいかばかりかと改めて思ったりします。

生まれた時から自分の周りに居るのが当たり前と思っていた両親が、そのどちらも居なくなると、改めて人間は必ず死ぬ存在で、人生は一度しか無いという当たり前のことの重さ、深さ、そして別れから誰も逃げようの無い人の定めの切なさを感じます。

父母が亡くなった年齢に私がなるまではあと20年ほど、、、アメリカに二度目に来てからあっと言う間に過ぎてしまった時間と同じ位、、、

桜の花越しに、、(2006年3月掲載)
桜の終わる季節にーもう一つのフィナーレ(2008年4月掲載)
「偶然」という名の奇跡に寄せる想い(2008年4月掲載)
夢が教えてくれた事(2009年3月掲載)
明るい人(母との一番大事な30年程前の思い出)

  母さん私 母さんが亡くなってから
  母さんのこと 好きになったみたい ごめんね  

      辻子恵子 (福井県 41歳)    『日本一短い母への手紙』より

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by bs2005 | 2009-04-09 07:59 | 待夢すりっぷ  

夢が教えてくれたこと

亡くなって10ヶ月ほど経った頃から、母がよく夢に出てくる。

私と母は不仲な母娘だった。母がボケてきてから言い争うことが減り、母もそれまで表面に出さなかった親馬鹿ぶりを前面に出すようになり、晩年はそう不仲ではなかったのだけど、基本的に不仲な母娘だった、、と思ってきた。周りの家族にもそう嘆かれてきた。

でも、夢の中での私達は仲が悪くない。そして目覚めてみると、確かにそういう時間も沢山あったのだと気付かされる。一緒に鼻を突き合わせていると、一週間もすると大爆発する。だから不仲と思ってきたけれど、大爆発する前の一週間は、一緒に笑ったり、食事に行ったり、、それなりに和やかな時間が沢山あり、そちらの時間の方が多かったのだということに今更気付く。

母が生きている時は、大喧嘩の方にばかり目が行ってしまって、そのことに気付かなかった。

私のお気に入りのパン切り包丁がある。もう35年近く使っている。母と一緒に月一回通ったベターホーム協会のパン教室で、「パン切り包丁は良いものを」と言われて、それぞれ自分の家用にそこで買ったものだ。協会推薦だけあって未だに切れ味が良い。他の市販のパン切り包丁とは比べ物にならない。

上の娘の妊娠中、私が母を誘ってその教室に行ったのだった。そのパン教室に通っていたとき、周りの人に、「まあ、お母さんと娘さんと一緒に習いに来ているの?仲が良いのね~」と言われた。そう言われるのは事実と違いすぎていて、気恥ずかしかった。

でも、確かにあの時間は仲のよい母娘だったのだと思う。そういう時間が確かに沢山あったのだ。パン切り包丁が「私がその証拠よ」というように私の台所にある。「今頃、気付くなんて呆れちゃうね」と笑いながら、、、。

今日見た「スタジオパークからこんにちは」のゲスト、藤村志保さんが、年老いたお母さんに言われた言葉を伝えていた。それは「この年になると叱咤激励は要らないの。優しい言葉が欲しいの」というもの。

志保さんは、老いていく母の姿を受け入れられずに、つい叱咤激励してしまっていたのでハッとした、確かに優しい言葉の少ない娘で申し訳なかったと言っておられた。この年になってみると、志保さんの気持ちも、そのお母さんの気持ちもよく分かる。母を亡くした今はなおさらよく分かる。

お母さん、私は本当に優しい言葉の足りない娘でした。もう、やり直す術もなく、あなただけが私に与えることの出来たその時間の貴さに、今頃気付いてほぞを噛む、、、、これが私に与えられた神様からの罰なのでしょうね。あなたが生きていれば、「本当にバカなんだから、、」と一緒に大笑いしてくれるでしょうに、、。
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by bs2005 | 2009-03-10 04:56 | 待夢すりっぷ  

雨、雨、降れ、降れ、母さんが、、、

子供の頃、よく馴染んだ歌がNHKの「みんなのうた」で流れていた。画面の中では、迎えに来てもらった幼児が嬉しそうに傘の中でお母さんを見上げて歩いている。途中で魚屋さんに寄って買い物をしたり、、。

この歌、何だか好きだったな~と思い出す。雨に濡れそうなときにお母さんが助けに来てくれる、それが好きな理由と漠然と思ってきたけれど、改めて、その歌、子供の表情、そこに流れている時間などを見ていると、お母さんが助けに来てくれてその後一緒に過ごす、その時間全部が素敵だったのだなと今更気づく。

思い起こしてみると、そんなにその経験は多くない。天気が怪しいときは、傘を持って出かける。思いがけなく雨が降った時だけだし、濡れて困るような降りの雨の時だけだ。それでも、雨宿りしていて、遠くに傘を持ってやってくる母の姿を見つけた時の嬉しさは覚えている。多くないけれど、その思い出は心を温める。

振り返って自分と娘達のことを思うと、迎えに行くときは大抵車だったと思う。さっと行って、さっと拾い上げて、さっと帰ってくる。あの童謡に流れるような濃密な時間は無かったように思う。ほとんど記憶に無い。幼稚園のお迎えは園の決まりで徒歩で行ったように思うけれど、元々来ると分かっている母親が傘を持ってきても、それほど嬉しくないだろう。

来ると思っていなかった母親が自分を助けに来てくれる、この意外性の嬉しさはこの歌の大きいポイントだと思う。私の娘達は一度でもそんなほのぼのした嬉しさの記憶を持ってくれているだろうか。不安だ。

最近の親子だったら、もっとそうだろう。お母さんは働きに出ていて迎えに行けなかったり、子供は傘を受け取っても、そのまま塾や習い事にあたふたと行ったり、あの童謡に流れているようなゆったりした時間はないだろう。軽くて使いやすい折り畳み傘をいつも持参という子供も居るだろう。

子供のときから何となく好きな歌ではあったけれど、改めて何て贅沢な幸せを歌った歌かと思う。迎えに来てくれた母も居なくなった今は、単なる好きな歌ではなく、胸がきゅんとなる歌になってしまった、、、。
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by bs2005 | 2008-11-24 04:56 | 待夢すりっぷ  

人の哀しみの分かるDNA

娘達が二度目の駐在でアメリカに来たばかりの頃、子供の頃こちらに来て多少は話せていた英語も忘れ果て、発音も丸っきりのカタカナ英語だった。その状態で、いきなりこちらの高校に入るのだから、親が見ていても気の毒な状態だった。

アメリカの学校では、高学年以降はグループごとの排他的固まりが出来ていて、アメリカ人でも転校生などは入り込むのが難しく馴染みにくい傾向がある。グループから疎外されたくなくて、他の皆がすることを嫌々でもすることも珍しくない。そんな中で、言葉も出来ずにいきなり放り込まれる疎外感というのはすさまじいものがある。

娘達が帰ってきてこぼすこと、こぼすこと。そんな中でふと興味深く思ったことがある。全体的に白人の子供達はそういう状態に対して冷たい。こちらが言葉もろくに出来ないのを冷ややかに見て知らん顔している。それに反して黒人の子供達は言葉が分からなくても、そういう冷たい雰囲気がない、温かみがある、優しさを感じるというのだ。

(肌の色での区別はしたくないし、そのつもりもない。そもそも肌の色で表現する「白人、黒人」という言葉自体にも抵抗がある。あるけれど、今回の記事や人種問題について語る記事などでは便宜上使うのをお許し頂きたい。自分だって黄人と呼ばれたら凄く嫌だと思うので、「お許し頂きたい」で済むかと言われたら返す言葉も無いし、いつの日にか人種差別が地上から消えた時には死語となる言葉であることを祈りつつ、、。)

その学校で黒人が白人から格別冷たく扱われていたわけでもなく、シリコンンバレーに住む黒人の子供はエリートの家庭の子も珍しくない。カリフォルニアではあからさまな差別は最近では特に少ないし、アメリカの他の部分と比べ、人種の融合度は高い。固まっているグループも人種的には融合している場合が多い。娘達も言葉で通じ合えるようになってくるに従って、そんなことは言わなくなり、白人の優しい友人も出来てきた。

それでも、娘達が最初に言葉ではなく肌でそう感じたのは、黒人には長い間差別されてきた歴史があり、自分の世代ではたとえそれを感じていなくても、そういう哀しみを感知し、本能的に理解できるDNAを持っているからではないかと思った。それ以来、黒人の人の笑顔に接する時、私もそういうものを感じるようになった。今、オバマの笑顔を見るとき、その笑顔の独特の温かさに気づいた頃の思いが蘇る。
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by bs2005 | 2008-10-31 01:15 | 待夢すりっぷ  

手を繋ぐ

あまり手を繋ぐ方ではない。必要が無ければ繋ぎたくない方だったかも知れない。

弟夫婦は稀に見るほど仲が良い。弟が出勤する時は、いつも駅まで一緒に歩いて送っていく。家に居るときは、いつも、何でも一緒にする。義妹は弟をとても頼りにして、夫唱婦随がとても和やかな自然体でいい感じだ。でもその時まで、私の前で手を繋ぐ姿を見たことはなかった。

母が臨終を迎えた病室に皆で向かうとき、弟はよろりと義妹に近づき、彼女と手を繋いだ。そうしなければ歩いて行けないように見えた。五十歳を過ぎた弟なのに、その姿は何だか母に手を繋いでもらう幼児のような必死さを感じた。

父母が衰えてからは、子供の頃から考えると何十年ぶりだけど、よく手を繋いだ。そうしないとよろけて危ないからだった。

日常の「有難う」はお互いによく言っていたと思うけれど、育ててもらったこと、支えてもらってきたことを父にはきちんとお礼を言えなかった。母にも臨終の時にしか言えなかった。元気な時にはきちんと言えなかった。そんなことを言うと、もう長くないと認めてしまうことと同じような気がして、、。

それでも、父や母を支えて手を繋いで歩いたときの、その手の温もりが今の自分を支える。言葉では言えなかったけれど、手から手へと感謝の思いは伝わってくれたような気が今はする、というか、そう思いたい自分が居る。

手を繋ぐ、、そういう動作が出来る動物に生まれてきたことは、結構有り難い事かも知れない、、なんて取り留めの無いことを思ってしまう今日この頃だ。
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by bs2005 | 2008-05-30 06:53 | 待夢すりっぷ  

2027年の私から2007年の私へ

真夜中に眠れぬままにブログラインの更新情報をチェックして香音さんの記事で天国からのメッセージというのを見つけました。名前と生まれた年を入れればよいのです。私もやってみたら、こんなのが出ました。

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by bs2005 | 2007-09-24 19:13 | 待夢すりっぷ  

そんな家庭方針があったのか、、、

娘達が日本語補習校に通っていた頃だから、大昔。補習校には、同じ日本人でも色々な家庭から子供達が来ている。その中で娘達から聞いて驚いた話。

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by bs2005 | 2007-09-23 06:24 | 待夢すりっぷ  

パバロッティさん、有難う!

何度も病気で公演をキャンセルして、その意味では少々不評を買っていた貴方。
貴方の歌声を生で聴いたのはただ一度きり。もう8年近くも前です。その時も体調が悪いと言われていて、多分ドタキャンになるというもっぱらの噂がありましたが、大方の予想に反して出演。観客は喜びもひとしおでした。

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by bs2005 | 2007-09-09 04:37 | 待夢すりっぷ  

君子豹変す

父は一生現役で、自分の信じた道を生き抜いた人である。その意味では立派に一貫性を保っていた人だ。最初にこれを断っておくのは、日常生活では、実に色々くるくる言うことが変わっていたからだ。

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by bs2005 | 2007-09-08 01:42 | 待夢すりっぷ  

お母さんていいなぁ~!

この記事を見て下さい!そしてこれも!紙粘土でこんなものまで作り上げてしまうなんて、お母さんの愛情ってすごいですね~!

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by bs2005 | 2007-02-20 01:39 | 待夢すりっぷ