カテゴリ:異論・曲論( 205 )

 

金融サミットで日本の対応が好評だったので、麻生さん、後世の評価など持ち出してはしゃぎ気味のようだけど、要するに供出金額が多かっただけのこと。具体的な有効な策が出せたとは思えない。そういう話は聞こえてこない。

日本の国内政治で定額給付金などという無策極まりない醜態をさらしている人が、国際政治の場面で有効な策を提起できるわけもない。

オバマは、大多数の庶民が繁栄を享受していない国の経済が繁栄することはあり得ないと、まことに当たり前のことを言っていたけれどーそれがアメリカでは当たり前とされていなかったのだけどー同じように自分の国でまともな策を実現できない人が世界の場で出来るわけがない。

何事も基が大事。基がしっかりしていなくて実現できることはない。結局、彼のすることは、国の中でも外でも、お金をばらまくことだけなのだろう、、(怒)。
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by bs2005 | 2008-11-17 06:23 | 異論・曲論  

お金の貢献で何が悪いの?!

今朝、こちらの報道番組で私は見損なったのですが、オットの話によると日本が金融危機に際し、10兆円の援助をすることがとても高く評価されていたそうです。それに比べて中国はたった50億円とはどういうことかというトーンだったとか。

テロ支援、給油補給、日本では散々話題になりますが、日本が油を供給したからと言って、それが貢献として賞賛されたのを私は聞いたことがありません。日本の国際貢献をこれだけ明確に賞賛するのを聞いたのは初めてです。日本が中国よりリーダーシップがあるような国として扱われたのも初めてです。

10兆円の援助自体の評価はともかく、何かというと九条を眼の仇にし、国際貢献を口にする人々への一つの答であることは間違いないように思います。

お金だけ出して済ませようとしている、それでは済まないという日本の評論家は多いです。特に生身の人間の戦争経験に謙虚に向き合うことなく、資料や文献にばかりあたっていっぱしのことを言ったり、日本の戦争責任を歪んで伝えようとする著名評論家などが声高に言ってます。

そう櫻井よし子さん、あなたのような評論家のことですよ!自衛隊のトップで懸賞論文に応募して定年退職(?)した人とかね。

それぞれの国がそれぞれの国にあったやり方で貢献するのが何故悪いのでしょうか。お金だけでなく、ペシャワール会、国境なき医師団、その他、様々な所で貢献しているというのに、その卑劣な矮小化は何でしょう。その時、その場で、何が出来るか、何が本当に有効であるか、そのことが一番問題なのだと思います。

ああいう机上論の現実離れした、生身の人間が必死で伝えるものへの視点が欠落した評論家がもてはやされる日本が情けないです。櫻井よしこさんのようなカリスマ評論家の持つオーラに簡単にやられないようにしてもらいたいものです。もっと生身の人間の体験に耳を傾けて、何が本当か、何がそうでないか自分で見極める眼を持ち、ああいう類いの評論家の言っていることを鵜呑みにしないで、自分の頭で考えることを切に望みます。

本当の歴史は資料に書かれていない部分、葬り去られた部分、声なき声の部分に往々にしてあるのです。

戦後60年経って、良心の呵責を乗り越え、あるいはその悲惨さから眼を背けることをやっと克服し語り始めた人々もいる現実からも、それは言えます。資料に残されていない部分の方にどれだけ真実が埋まっているか分かりません。無惨に死に追いやられた人々はそもそも死人に口無しなのです。往々にして弱者からは記録する力、記録を残す力まで奪われていることを忘れてはいけないと思います。

資料至上主義では見えて来ない真実があり、資料や文献にのめり込む人の落とし穴はそこにあるのです。資料は大事なものですが、それが全てではあり得ません。資料の向こう側まで見通す力が必要です。自分の理論に都合良い生身の人間だけでなく、幅広い反対の立場の生身の人間の声も謙虚に聞く姿勢が必要です。

生身の人間の歴史に向き合い、その真実を見極める力の無い人間には文献にのめり込むより他ないのかもしれませんが、、。
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by bs2005 | 2008-11-16 05:19 | 異論・曲論  

らふぃさんのコメントに寄せて ー 政治的リーダーの責任

(異常に長いので、お急ぎの方は赤字の所だけお読みになるのお勧めします(汗)

らふぃさんへの質問では、クリントンのルインスキー事件を長々と語る形になってしまいましたが、そもそもは、一国の指導者にとって精神的指導者としての役割がいかに大事か、それを軽視したときに、どんなに国そのものが歪むかについて書きたかったからでした。日本で言えば田中角栄事件がそれにあたると思います。

田中角栄の事件の時も、政治家はクリーンで無くても、堅苦しい道徳を守らなくてもよいのだ、政治をきちんと上手にやれば、というのが角栄擁護論の中で出て来たと思います。

クリントンの場合も、経済を繁栄させ、国家赤字を黒字に転換させた業績のある大統領を女性問題のようなプライベートなことで云々という擁護が盛んになされたと思います。私はこの二つの問題が非常に似た問題をはらんでいると思うのです。

らふぃさんはコメントの中で「アメリカには国教はないけれども、国民の統合のための非常に緩やかで政治的にもどこにも書かれていない、けれども極めて政治的な「見えない国教」があると表現したのです。その意味で、大統領は政治的指導者であると同時に、アメリカ人にとっては精神的指導者でもあるという分析がされています。大統領が政策で弾劾されるより、モラル問題で弾劾されるケースの方が多いのはこのせいかも知れません。」と書かれています。


私はアメリカに限らず、世界のどこでも、そもそも政治的指導者には精神的指導者でもあることが求められていると思います。その要求にその国のトップが答えられているかどうかは別として、、、。人が人の上に立つということは、本質的にそういうものを求められてしまうのだと思うのです。

そして、その求め方が厳しい国とルーズな国の差はあると思いますが、ルーズな国は良い方向に進みません。歴史的に見ても、それがいい加減になった国が皆、滅びたり、弱小国になっています。


どのような基盤で、どのような精神性で、どのような歴史的経緯でというような事になると違いが出てくると思います。アメリカの場合は、らふぃさんの解説してくださったようなことが根拠になっていると思いますが、精神的指導者でもあることが求められているのはアメリカに限らない普遍的なことだと思います。

勿論、らふぃさんがアメリカだけのものとして考えておられる立場で書かれているわけではないとは思いますが、ここのところは明確にしないと、アメリカの善魔性を支える思想と拮抗できなくなると思いますので敢えて明確にしておきたいと思います。

さて、本質的にそれが求められるのは、そもそも政治というものが人間社会を扱うものだからであり、だからこそ、リーダーの道徳性、倫理性というのは、非常に大事な要素であるからです。今日、そのことが資本主義経済のいびつな肥大化によって軽んじられていることは大きな問題だと思うのです。

あの事件の当時、プライバシーの問題、女性問題と片付けようとする人々に、私は田中角栄の問題を例に出して、国のトップの人間の偽証(真実への宣誓の放棄)という非倫理的姿勢をいいかげんに処理してはいけない、それはその国を間違った方向に進めてしまう、その国の精神性を深いところで歪めてしまうと批判しました。

外国人の私がそういう批判をすることはクリントンを批判する人達にも好意的には受け入れられませんでした。その時、私はアメリカ人にとっての大統領というものが、自分の身内のような存在なのだと感じました。自分が身内の批判をすることはあっても、他人に批判されたくないというような、、余談ですが、、。

それはともかく、田中角栄のような政治家が出て、それが力を持ってしまったことは、その後の日本のバブルの時のあり方、ホリエモン的経営者の続出を生む地盤を作ってしまったと私は思います。今日の偽装問題、不正の横行なども深いところでその素地が作られてしまったのだと思います。

あのクリントンの事件の対処の過程で、あれを女性問題、個人的問題と矮小化して片付ける考え方を許してしまったことは、経済、政治がうまく行っていれば他のことはどうでもよいのだという考えに勢いをつけてしまって、それがサブプライムローンのようなものを許し、肥大化することに深い所で繋がったと私は思うのです。


一国のリーダーがどんなに政治をうまく運営し、経済を発展させても、その精神的指導者としての役割を忘れたときに、その国に与えるダメージというのは、もの凄く大きいもので、その大きさというのは、当初は大したことに見えずに軽視されがちですし、固い事言うなという風潮に押し流されがちですが、じわじわと長い時間の中で浮かび上がってくるものだと思います。

何故ならば、リーダーのあり方がそのリーダーと同じ時代を生きる人間に、人間はどう生きるべきか、というより、どう生きてしまってもいいのかというメッセージを送ってしまうからです。ああいう風に生きても成功者になれるのだ、成功者で居続けられるのだと、、。


オバマが大統領になる瞬間を目撃する世代は、人種の云々にかかわらず誰もが大統領になれるのだというメッセージをもらったと思います。非倫理的なことをしたリーダーが大した罰も与えられずに逃げ仰せる姿を見れば、あれ位のことはしてもよいのだ、やり得というのがあるのだ、トップに立てばどんなことをしても守られるのだというメッセージをもらうと思います。

リーダーというものは、その影響力が強ければ強いほど、良きにつけ悪しきにつけ、そういうメッセージを本人の意図とは無縁に送ってしまう存在であり、その流布されてしまったメッセージへの説明責任を持つ存在だと私は思います。

どういうメッセージをその国のリーダーから受け取ってしまうかは、その国の将来の方向を決めかねません。言ってみれば、その国の次の時代のDNAを作ってしまうのだと思います。日本の敗戦を挟んだリーダーの変質が戦後社会に与えた歪み、倫理の喪失もその深刻な例だと思います。だからこそ、リーダーは世界のどの国でも、精神的指導者としても存在することが本質的に深い次元で求められているのだと思います。


この問題に関する限り、私は批判にさらされたリーダーがどんな良い仕事をしたかに全く関心がありません。業績だけに絞れば、クリントンは確かに沢山の業績を挙げた大統領であることは誰の眼からも明らかだし、否定も出来ないと思っています。多くの人に希望を与えた存在であることも理解は出来ます。でも、それはここでの問題とは全く別の次元の問題だと思います。

あのスキャンダルがどこまで真実であったかとか共和党の陰謀であったということにも全く関心がありません。勿論、スキャンダルの当事者、関係者にも一切関心はありません。それぞれ私人である限り、それこそ個人的問題だと思います。その人の人生に起きたことは、それぞれが自己責任として背負って行くより他は無いし、彼らがあの時どういう思いをしたか今どうしているかなどは、他者の関心を拒絶するものだと思います。

ああいうスキャンダルが流されることで真偽は別として国民に伝わってしまうメッセージ(選挙中に妻と有権者に誓ったことを反古にし、神聖な執務室で不適切な行動を取り、夫としても父としても業績さえ挙げれば非道徳な存在であることを歯牙にもかけなくても構わないのだというメッセージ、個人のプライバシーのことなら偽証してもよいのだというメッセージ、法はそういう風に軽く扱えるものなのだというメッセージ、等々)こそが問題だと思うのです。

しつこくなりますが、それが本人の送ろうとしているメッセージであるかどうかは別の次元です。意図するものとは大違いであったとしても、そういうメッセージが伝わってしまった以上、そのメッセージを無力化する全面的責任がリーダーにはあると思うのです。

クリントンはその責任と機会が与えられていた。でも彼はそれをしなかった、そのことが問題なのです。私がクリントン嫌いであるのは、あのスキャンダルの醜悪性とは無縁です。この責任を全うせずに居丈高に振る舞ったからです。


田中角栄に関しても、真実が伝わっていないと彼を擁護する批判は根強くあります。私は、真偽がどうかという問題と実際に伝わってしまったメッセージの問題は次元が違い、そこで第三者が真偽を論じることは無駄ではないと思いますが、あまり意味が無いように思います。

(勿論、虚偽のメッセージを送り続けるメディアの問題はありますが、それもここで論じたい問題からは離れるので敢えて触れません。今までもメディアの問題はそれなりに提起してきたと思いますし、、。)


伝わってしまった否定的なメッセージ、それを無化すること、あるいはポジティブなメッセージに転換することが最も重要だと思うのです。ここで真偽にこだわることは、むしろ、その課題から離れてしまう危険さえあると思うのです。

これはオバマのあの牧師にまつわる陰謀(?)に対する態度が対照的であったことからも言えると思います。オバマはむしろあの機会をあの演説によって素晴らしい人種融合へのメッセージと変えることが出来た。クリントンだって対処の仕方では全然違うメッセージを送れた筈なのです。


私はあのスキャンダルそのものを醜悪だと言い募りたいのではないのです。今までに他の記事で何度も書いてきたように、人間はそもそも限りなく醜悪になってしまう弱さを持った存在です。人間が普遍的に持つ弱さや醜さを言い募りたくないのです。

たとえあのスキャンダルが丸ごと真実だったとしても、クリントンは人間の本質的弱さに触れて、その弱さからどう立ち上がるかという貴重なメッセージだって送れた筈です。共和党の陰謀によって歪められたメッセージであったとしても、それを完全に無化することは出来た筈なのです。リーダーとしての真の資質さえ持っていれば、そしてそれを受け止める国民大衆への信頼さえあれば、、、。

真偽はともあれ、スキャンダルと無縁でいられる政治家は少ないでしょう。それにどう対処するかでその人間の倫理性が問われるし、送ってはいけないメッセージを国民に送ってしまう、そのことを問題にしているのです。一国のリーダーだからこその問題を語っているのです。一般に人の個人的問題にどう対処するかの問題とは全く別の次元で語っているのです。


人間は過ちを犯す存在です。過ちを犯した時にどう対処するか、リーダーはそれを最も厳しい形で求められています。リーダーになる責任というのはそういうことだと思います。有形無形のメッセージを送ってしまうリーダーだからこそ求められる重大な責任です。

順調な時に、立派な人間でいることは比較的簡単なことです。人間は追いつめられた時に、否応も無くその人の本当の姿を表してしまいます。その時こそ、真にリーダーであるかどうかが問われるのだと思います。その責任を全うしなかったリーダーをきちんと批判することも、そのリーダーが伝えてしまったメッセージを無力化する為にはきちんとやらなければいけない
と私は思うのです。らふぃさんには個人批判としか思って頂けないようですが、これが私が批判をしなければならないと思っている理由です。(私は一般的に傲慢な政治家、居丈高な政治家への個人的な嫌悪感が否応も無くあるので、そこからのトーンが、らふぃさんにそう受け取られてしまう原因かとも思いますが、、・汗)

らふぃさんの最新のコメントによると、あの当時共和党には絶対勝ち目のない政治的成功をクリントンは収めていた、だからこその醜悪な陰謀だったということですが、そうであれば尚のこと、あのような対処で、民主党政治の続行の可能性をつぶしてしまった責任は大きいと思います。その陰謀にしてやられた事ー圧勝できた筈のゴアの敗北ーは、リーダーとしての対処の問題を厳しく問われても仕方のないことだと思います。

リーダーとしての倫理性をあのような形で政争の道具に使った共和党の卑劣さをどのように責めても、また同感しても、そもそもリーダーというのはそういう試練にさらされる存在であり、そういう陰謀に巻き込まれるような隙を見せるべきではなかったし、巻き込まれたとしても毅然とした対処が求められる存在だということです。

選挙運動中の夫婦揃った弁明をした立場からも。それを個人的云々と言って逃げることはあの弁明をしたときに許されなくなっていたという理解も必要だと思います。それが嫌なら、そもそもあの時点で個人的問題と突っぱねるべきだったのです。選挙戦術に有利になる時だけそうするような事はできないのです。そういう自覚を持つ事、それがリーダーが負うべき自分の発言への一貫性、生き方への倫理的責任でもあります。


共和党の陰謀、クリントンの業績の詳細、スキャンダルの信憑性、個人的問題への対処のご自身の信条にお触れになったらふぃさんには、私のその基本的立場がご理解頂けていないように思うのは、私の方の誤解でしょうか?私はらふぃさんが述べられたそれらのことには、この問題に関する限り関心が無いのです。全く別の次元で論じているからです。

私がこのことを論じるのにそれらに関心が無いからと言って、らふぃさんの書かれたことが意味が無いということは全くありません。私にとっても、他の読者の方々にとっても、よりアメリカの深い理解につながったと思いますし、貴重なお時間を割いて、あんなに丁寧に詳細に書いて下さったこと、とても感謝しています。そのことも誤解のありませんように。

私があの問題を例として長々と取り上げたのは以上のようなことで、らふぃさんの思われているような角度からではないことを分かって頂ければ幸いですが、これは基本的な立場の違いから来ているものでご理解頂けないものかもしれません。また、ひょっとしてリーダーの倫理性に求める厳しさの世代的、地域的、環境的、或は個人的違いというようなものもあるかも知れません。

いずれにしても、このような形でとことん冷静に語り合えたこと、とても感謝しています。お互いに相手の立場への理解をより深めて行くことで更に深い理解が得られればと思います。また立場は違い続けても、私の真意、共和党支持でなくても、個人批判に興味が無くても、リーダーであるが故に批判しなければいけないと思っている立場ーそれが正しいかどうかは別としてーがあり得るのだということだけでも理解して頂ければ幸甚です。

今回、らふぃさんとヘンリーさんのお蔭で、クリントンに関して私の対極にある方々の考え方、感じ方というものが凄くよく分かって視野が広がった感じがします。立場の違いに臆することなく、丁寧に詳しく対応して下さったお二方には、とてもとても感謝しています。これに懲りず、これからもよろしくお願いします。私がおかしな事を書いたらいつでも遠慮なく来て下さい♪あ、それはいつもの事か?(汗)


私がオバマを一貫して支持してきたのは、彼が家庭(=人間の生活の基本)を大事にする道徳を持っていること、正直さを大事にしていること、彼自身の言葉でよく言うようにアメリカ国民の受け止めを信頼していること、などからリーダーとしての資質に期待しているからですが、これからはリーダーのこういう責任も立派に果たしてくれることを切に祈っています。資質が本当に試されるのは彼が危機に追い込まれたときであることもよく承知していますが。

続けて、らふぃさんの初めのコメントにあった融合の問題を建国の精神、アメリカの見えざる国教について記事にしたいと思っていますが、よろしいでしょうか?やっとクリントンの問題からは離れられると思いますし、離れると約束します。信じて頂けないかも知れませんが、私自身、すごく離れたいのです(笑)。ご異議がなければ、次の記事に進ませて頂きます。

余談ですが、オサマ拘束の情報の真偽性にも以上のことからそんなに関心は持っていないのです。ならば何故引き継ぎがもっときちんとされなかったかとか、国民に知らせる義務をどこまで果たしたかという彼の説明責任に関する素朴な疑問はありますが、ここで述べた存在そのものが送るメッセージへの責任ということとは次元の違うことですし、時間は後ろに戻せないのですから、これ以上言っても仕方の無いことと思っています。オットは非常に拘っているのですけど(笑)。


この記事を読んで下さった方(こんな長いの読んでくれる人、居るのかな〜?)でヘンリーさんのTB記事を読み損なった方は、クリントンの評価に関しては私とは正反対の立場ですが、その内容は素晴らしいものです。是非お読みください。私が書きたい世界の融合のことにも関係してきますので。

関連記事:
「善魔」
善魔の思想を支えるもの
「patriotism - この神聖にして不可侵なるもの」






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by bs2005 | 2008-11-12 07:29 | 異論・曲論  

らふぃさんへの質問

らふぃさん、色々教えて下さって有難うございます。

あの記事のコメント欄は既に大分長くなっているし、こちらも長くなるので、コメント欄でのお返事という形でなく別記事にしますね。

そもそもこの質問は私の能天気な記事のコメント欄が、全く思いがけない形でらふぃさんのお蔭で、アメリカに関するとてもアカデミックなものになったからなので、コメント欄を読んでおられない方は、何のことやら分からんと思われると思います。

興味を持たれた方は、上記をクリックしてコメント欄をお読み下さい。後半がそれにあたります。ここでの質問はクリントンに関してに限定していますが、彼女の書かれたものはアメリカに於ける建国の歴史、宗教、政治、社会と幅広く触れたとてもアカデミックで興味深い内容です。

エキサイトブロガーでない方は、恐れ入りますが、エキサイトブログでブログを形式上作ってログイン出来るようにして頂ければ読めます。らふぃさんの書いて下さったことは、とてもアカデミックにアメリカを理解できると思いますので、手間がかかっても、その価値はあると思います。形式上作るだけで、別にブログは始めなくてよいので、、。

また、こちらの記事に関して新たにご自分の持論を展開されたい方は、コメント欄でなくTBで送られることをお勧めします。コメント欄は字数制限がきついし、TBならばエキサイトブロガーで無くても送れます。勿論、コメント欄を使いたいという方はそれで結構です。この件に関する飛び入りは大歓迎です。

前置きが長くなった上に質問に入る前に、ちょっとらふぃさんにお知らせが先に入ります。すみません。

昨日、ニュースで言ってたのですが、就任式の切符は原則的に無料なのだそうです。ただ、それが手に入るのは具体的にはどういう資格か分かりませんが、資格のある人々だけで、切符を販売しているサイトで売っているものは、そういう無料券を入手できる人々から流れてくるものだそうです。道理で、あそこに居る大群衆の数に比べて売っている枚数は限られています。

実際の切符が発行されるのは、就任式の一週間前なので、切符を販売しているサイトは、自分の売っただけの切符が本当に手に入るものなのかは不明。それでサイトで切符を勝った人達は実際に当日ワシントンに居ても、切符も手に入らず、お金も戻らずという最悪のことになる場合もあると言ってました。それで、私たちが実際に就任式に参加できるかどうかは、直前にならないと分からないようです。(涙)

さて肝心の質問の前に長くなってすみませんでした。いよいよ、質問に入ります。

1。あの当時、唐突にされた爆撃がテロ対策だったということの信憑性は、どの程度あるのでしょうか。具体的にどこへの攻撃か忘れましたが、テロリストが居る地域という情報があったのでしょうか。テロを具体的に計画しているという情報だったのでしょうか。その極秘情報の正しさの証明は出来るのでしょうか。では何故既に訓練を行っている情報のあったアフガンの方を放置していたのでしょうか。

2。事実だとして、あの時点で、国民にアメリカにテロが迫っていること、対テロ対策が必要であり、その一貫としての爆撃であることを機密に関わらない範囲で可能な限り
知らせることが不可能だったという合理的理由は何でしょうか。一切、語れないということは無い筈だと思うし、むしろ、アメリカへのテロという情報は可能な範囲でクリントンはするべきだったのではないでしょうか。

3。国家がそれだけの危機に際していて、クリントンはルインスキー事件にかかずらわっている暇が無かったなら、むしろそれだからこそ、あんな偽証などせずに、あっさり自分の赤恥をさらしても、全面的に謝罪してケリをつけ、先に進むべきだったのではないでしょうか。

自分のメンツを国家的危急の事態より優先したということになりますよね。法に対する神聖な義務を負う大統領の立場でありながら、自分のメンツの方を優先した彼としては一貫性があるとも言えますが、、。

あんなにこじれて弾劾問題まで進んでしまったのは、偽証してしまったからで、それこそ偽証している暇は無かったのではないでしょうか。たかが女性問題のことで偽証して引き延ばした責任は重いと思います。それが事実なら引き延ばせる時間が無いことは一番知っていた立場ですよね。彼がそこまで無責任な男だったということでしょうか。

いつの時点から国防の急が迫られていたのか分かりませんが、テロリストが準備していた段階は大分前からだと思います。彼らの訓練の様子などは、CNNで大分前から伝えていたように思いますから。そうだとすると、そもそも執務室で女性といちゃいちゃしている暇など無かったのではということにもなりますね。

4。9−11の後一般に流布された話ですが、オサマ・ビン・ラディンが拘束され、処遇をどうするかとクリントンに問い合わせが来たのに、クリントンは何もしなかったというのがありましたよね。それが9−11を引き起こしてしまったという批判がずいぶんされました。そういうことがあったのは事実のようですよね。

もし、あの爆撃当時に、それだけのテロの危機が迫っていて、そういう情報が彼にはあったのなら、何故、彼はオサマに対して何もしなかったのでしょうか。引き継ぎに関しても何もしなかったのでしょうか。もし、彼がそれほどの国家の危急の状態を知っていたならば、オサマを放免したことは余計問題だと思います。

何しろアクセス時間が短いので急いで読んだので誤解しているかと思いますが、政権引き継ぎ時に国家機密に関して引き継ぐことは当然行われていると思います。それがきちんと行うことが慣例になっていなかったというのは、いくつも戦争をやってきている国のリーダーとしては考えられないことと思います。

私企業でも、その存亡に関わるような重大なことは当然後継者との引き継ぎの最優先に行われることを、百戦錬磨の国家のリーダーがやらないというのはあり得ないことのように思えます。そういう情報を引き継がなかったのは、そもそもそんな情報は無かったからと考える方が自然ではないでしょうか。

百歩譲って、そういう情報があり、引き継ぎが自由意志にまかされていたとしても、そういう国家的危急の状態は慣例があろうと無かろうと、自分の判断でするのがまともな国家の責任者のするべきことで、それは知っていた人間の方から持ちかけるべきことだったと思います。それをしないで素知らぬ顔で政権を渡したとしたら、クリントンはアメリカの国民に対して犯罪的な背任行為を行ったということになりませんか?

私は上記のことから、そもそも防衛上、国家的危機状況であったという情報の信憑性自体、非常に疑わしいし、もし真実ならば、大統領として以上に述べた観点からすごく無責任だったと思いますが、らふぃさんはどう思われますか。

ネットのアクセス状況があまり良くないのでまとまらないままで、すみませんがとりあえず記事にします。あの当時の民主党、共和党、両党の問題は私も同感するところが大きいです。

ゴアが負けたのはあの問題を女性問題に矮小化して、ゴリゴリの党派的な対応をして、倫理的に民主党がきちんとした対応をしなかったからであり、ゴアがクリントンに対してきちんとした態度を取らなかったからだと思います。

そうでなければ、あんなギリギリのところまで追い込まれた上に負けたりしなかったでしょう。結果がブッシュのイラク介入に繋がってしまったことを思えば、その責任は重いと思います。

まだ書きたいことがあるのですが、長くなるのでそれは「らふぃさんのコメントに寄せて」という形で別記事にします。何しろアクセスの調子が悪くすぐ途切れるのでいつになるか分かりませんが。また、コメント頂いた方々へのお返事もそういう状態ですので、遅れるかと思いますが悪しからず。ではでは。

ヘンリーさんのTB記事はクリントンの評価に関しては私とは正反対の立場ですが、その内容は素晴らしいものです。どうぞお見逃しなくお読み下さい。
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by bs2005 | 2008-11-10 06:30 | 異論・曲論  

金持ちほど貪欲である理由

アメリカに来て大金持ちの姿を実際に垣間みた時に、度肝を抜かれました。と言っても、ビル・ゲイツのような超大金持ちじゃありません。大金持ちの中ではありふれたレベルなのかなと思います。

私が実際に見た中で一番凄かったのは、シリコン・バレーでも有名な会社の社長宅でした。そこは表札が見えた門の中に入ると道があって、そこをしばらくクネクネと数分走って行くとやっと大きい家が見えるのです。ど田舎の土地ならいざ知らず、シリコンバレーの超高級住宅地の中での、この敷地の広さです。

さすが大金持ちの家は大きいな〜と思って、そこに車を停めようとしたら、女主人が向こうからやって来て、そこはうちのガレージよというのです。ガレージと言っても、二階はお客様が泊まれるようになっているそうですが、団体が泊まれるような大きさで優雅な佇まいなのです。

そしてなるほどちょっと離れた隣に、瀟洒な邸宅と広い庭園がありました。庭園にテニス・コート、プールなどがあります。そこでテニスをする友人のパートナーとして私はやって来たのでした。

その友人(北欧の人だったと思います。彼女は簡単すぎる(?!)テニスに飽きたのか、もうテニスは辞めてしまって最近は付き合いが無いので、その大邸宅に行ったのもただの一度きりでした)はすごく上手だったので、女主人は彼女とやりたくて招待したのです。友人はパートナーのレベルにはあまりこだわらない人で、たまたま下手な私に声をかけてきたというわけです。

私はその家に着くまでそんな大金持ちの家とも知らず、家に帰ってオットに話すまでその家の持ち主が超有名な人だとも知らずに、のこのこ出かけて行ったわけです。アメリカの金持ちというのは、本当に桁違いだな〜とつくづく思いました。

そういうのを見た後で、徐々に、大金持ちの多くが実に貪欲である現実を知るようになりました。あんなに富、財産を得た人々がどうしてそんなに貪欲になるのか、場合によっては犯罪行為までして、もっとお金を手に入れようとするのか、何故四六時中お金のことを考え、キリキリしているのか、お金持ちになったことはただの一度も無い私は見当もつきませんでした。長い間、謎でした。

最近やっと分かってきたのです。お金持ちの生活を維持するには、とてつもなくお金がかかるのだということ、見栄を張った生活を続けるにも、そういう見栄の支配したお付き合いの人間関係から見捨てられない為にも、もの凄くお金がかかるのだと。

ひとことで言えば、大邸宅を手に入れたり、超豪華車を手に入れることは、何かの幸運であり得ても、その生活を維持するには、相当のお金を手に入れ続けなければならないということです。そして一度馴染んでしまった派手で甘い生活は手放せなくなり、どんな事をしても守ろうと必死になってしまうということです。蟻地獄に落ちたようなものでしょうか。

最近破産した金融機関のトップが数年間で640億の収入があったこと、破産間近の状態で50億のボーナスを手に入れていたこと、政府の公的資金援助がそうしたボーナスに回らないような規制がわざわざ必要なことなどが報じられてましたが、貧乏人の常識では考えられない貪欲さの理由はそういう所にあるのだろうと思います。

何故、こんな話をいきなりしているかというと日本で二兆円の給付金が問題になっているからです。そもそも一軒当たりに数万円のお金をばらまいても、それが何の役に立つのでしょう。焼け石に水でしょう。2兆円のお金があれば、もっと根本的な景気対策、職業訓練、低価格の賃貸し住宅の建設など、いくらでも他に出来るのではないでしょうか。

お金をドブに捨てるようなものではないでしょうか。しかも高額所得者には辞退してもらいたいとか、野田大臣などは全員支給で良いじゃないかと言っている。無策に呆れてものが言えません。せめて日本の高額所得者の多くはまだ恥を知っている人々であることを祈るのみです。
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by bs2005 | 2008-11-09 07:14 | 異論・曲論  

理解八分のお勧め

腹八分という言葉がある。なかなか私は実行出来ずに、腹十二分位までやっと引き下げられた所だ。(汗&笑)

元々、自分に甘く実行力がないので出来てはいないけれど、腹八分でたまたま終わったりすると(出された量が足りなかったりして、、・笑)、それがいかに健康に良いか正しい知恵かしみじみと感じる。私は理解というものも同様に考えた方がよいと思う。

人間は自分のことだって100%の理解なんかあり得ない。私の場合、半世紀以上生きてきて、やっと五割を超えたかどうか。超えていないかもしれない。自分が思うより、もっとどうしようもない人間かもしれない。逆にましかもしれない。(逆のケースは無いか?・笑)

一般的に言うと、一番自分を理解できている凡人で(思想家・哲学者等の専門家は除くという意味)精々80%という所だろうか。そんな人間同士が理解しようとするのだから、もっとも自分を分かっている同士だって80%×80%の64%だ。(まだ、この程度の計算は出来るみたい、、。・笑)

自分を理解してもらったと思う時の快感、嬉しさ、安堵感は何にも代えがたい。けれど、それはごく稀にしか起こらない。100%なんてことはあり得ない。そう感じたとしたら、それはどちらかの誤解に因る所が大きい。だから、その快感=満腹感をいつも求めてはいけないのだと思う。

人はそれぞれ生きてきた道も個性も何もかも違う。独特のものだ。自分が経験してもいないことを本当に理解することは至難の業だし、その経験をくぐって語っている人の言葉自体、どこまで理解出来るかというと、これもまた甚だ怪しい。

相手が理解してくれないからと、とことん相手に理解させようと気張るのは無駄な努力だし、お互いに傷を深めるだけだと思う。それ以上踏み込まないでも、何年も後になって同じ経験をすると、「ああ、あの時、あの人はこんな気持ちでこの言葉を使っていたのか」と突然理解したりする。100%とは勿論行かないまでも。

私などは両親とも既にあの世に逝ってしまい、その時の両親の年になって、あるいは両親が昔経験したのと同じ経験をして初めて、ああ、そうだったのかと臍を噛むような事が多い。

今、ここで相手に100%理解させよう、理解してもらおう、などと考えるのは辞めて、腹八分同様、相手が今わかってくれたレベルで、とりあえず満足しておくのが良いと思う。深追いは禁物だ。

分かる人は分かる。分からない人は分からない。あるいは分かろうとしない。絶対に分かりたくないと思っている人だっている。そんな人でも永遠に分からないとも限らない。逆に、こちらの方が分かっていなかっただけのこともある。(私と私の両親のように)

理解八分(理解の場合は80%の意味ではなく、8%の方と思っておいた方が良いかも?)、理解してくれなくて当たり前。誤解されて当たり前。いつかは分かってくれるかも知れないし、永遠に分かってくれないかも知れない。分かる気なんて最後までサラサラ無いかもしれない。神のみぞ知る。

そう思うようになってから、私は楽になった。誤解されたなと思っても、話して分かりそうな相手なら一応話すけれど、完全な理解は求めない。分かってもらえる所まで分かってもらえればそれでよい。話しても分かりそうもない頑固そうな相手(オットであることが多い・笑)は放っておく。時間が経てば分かってくれる日もあるかもしれない。

とことん理解してもらおう、などと思わなくなってから誤解して去られても、去る人は追わずと達観出来るようになった。オットの口から突然、私が前言っていたような意見が出てきたりもする。(笑)

とことん、自分の言い分を今の相手に分からせようと思うから、熱くなったり傷つくのだと思う。それだけ相手に愛情があるのだとも思うけれど、間違った愛情表現だと思う。試しに理解八分をお勧めする。私はお蔭で喧嘩が大分減ったし(完全に無くなった訳ではない・笑)、ストレスが激減した。世の中には、このストレスがたまらん!という人も居るから、万人向きではないかもしれないけれど、、、(笑)。
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by bs2005 | 2008-10-12 05:04 | 異論・曲論  

ぶん的幸福論

先日の「小さな」癒し 「大きな」癒し」と逆のこと言ってるじゃないかと言われそうだけど、「誤解を恐れずに」(笑)書いてみようと思う。

あの記事の心理主義のように、全ては気の持ちようと言うつもりはないけれど、結局のところ、自分を幸福に出来るのは自分しか居ないと思う。他人にも環境にもそんなに大きな力は無い。

他人や環境が幸せにしてくれる時間はあるかもしれないけれど、そういう時間はそんなに長く続かない。自分の外にあるものは、自分の内にあるものの力を本来的に持っていないからだ。

自分で自分をどう幸福にするか?それは自分を閉じ込めている殻を自覚し、その自覚によって殻から抜け出た時に生まれる力がもたらすものだと私は思っている。

自分の殻とは何か?

それは、自他に対して「こうでなければならない」「こうであるべき」「こう考えるべき」「こう感じるべき」というような考え方・感じ方ではないかと思う。自分で意識している考え方・感じ方はむしろ問題ではない。問題は自分が無自覚なまま、それが普遍的な真理と思っている場合だ。

無自覚なまま、自分の殻になってしまっている考え方・感じ方はどこから生じるのか?私は育った環境、特に親の考え方・感じ方からだと思う。親に反発して徹底的に反抗して育ったような人でも、この殻は存在する。逆に抵抗し反発した分、そんな筈は無いと思っているのでかえって無自覚の度合いは大きかったりする。

自他に対して、と言ったけれど、その場合、自分の方に重心があると完璧主義的になる。常に自分を裁き、自責的傾向を持つ。他人に重心があると常に人を裁き、他責的傾向を持つ。重心がまん中にあって、両方の傾向を持つ人もいる。

親に対して激しい反発であれ、逆に絶対の従順であれ、親との力関係がインパクトの強いものであった人に、特にその傾向が強くなる。

自他に対してこうあるべきとかこう感じるべきと思う時、自分や他人を裁く気持ちでいる時、どうしてそうあるべきなのか、どうしてそう感じるべきなのか、もう一度よく自問してみると良い。本当にそうであるべきなのか、と。

そうすると段々、そんな自分の殻に気づいて、そこから自由になれて行く気がする。そしてその殻から自由になった時、人は自分を幸せにする力(=周りも幸せにする力)が内から湧いてくるようになる。

究極の所、人間には「こうあるべき」とか「こうでなければ」などというものは、そんなに無いのだ。だから自分にそういう傾向があると思う人は、自分に対しても他人に対しても「何でもありなのだ」と思う努力をすれば良い。但し、既に「何でもあり」と思っている人は、ものには限度があると思うように、、、(笑)。
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by bs2005 | 2008-10-10 12:18 | 異論・曲論  

「品格」の落とし穴

品格という言葉はそもそも好きな言葉だし、品格のある人には自分に無いものを持った人として憧れる。

けれども、最近の「品格」ブームには胡散臭いものを感じる。『××の品格』という本が柳の下のどじょう根性丸出しに次々と出てくるのを見ると、こういうタイトルを安易に許してしまう著者に、品格を語る資格があるのかと思ってしまう。

『戦陣訓』などは、言ってみれば大本営が庶民に求めた「軍人の品格」だったのではないだろうか。その「品格」を守る為に、多くの人が苛酷な状況で戦闘を耐え抜き投降を拒んで、助かる命が沢山失われた。「欲しがりません、勝つまでは」などというのも一種の「品格」の強要だと思う。

水木しげるさんの戦争のさ中のあり方を見ていると、「戦陣訓」からはかけ離れている。そのせいもあって随分ひどく上官の暴行にもあったようだ。しかし、今振り返ってみると、水木さんのあの生き方こそが庶民の本来の姿、平和につながる姿だったと思う。彼が「軍人の品格」などに一切関心を持たなかった生き方こそが今、輝いてみえる。

アメリカのpatriotismにも同じことが言える。国家への忠誠を求め、国を守るために立ち上がるのがアメリカ人の品格として内容抜きに求められている。

「品格」が祀り上げられ過ぎると、品格の有無で評価が決まり、人間としての序列が決まってしまうことにもなりかねない。「品格」ブームに私は何か危ういものを感じてしまう。誤解を恐れず言えば、人間に一番大事なものは品格ではなく、みっともなくても、格好悪くても、家族を大事に、一生懸命生きる姿勢だと思う。

関連過去記事:Patriotism - この神聖にして不可侵なるもの
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by bs2005 | 2008-08-23 05:17 | 異論・曲論  

食のブランド信仰からの訣別を!

食の偽装問題が後を絶たない。今度は下関のふぐが中国産だったとか。ふぐで有名な下関からのふぐが中国製とはお釈迦様でもご存知なかっただろう。

食、という大事なことを平気で偽装する業者への批判が手厳しい。それ自体は当然のことだけど、ちょっと待てよ?という気分にもなる。

次から次への偽装問題の発覚が消費者からの告発ないし不審からというケースを聞いたことがない。大抵、内部告発である、、、ってことは、消費者はそれが何であれ、〇〇の××はやっぱり一味違うね~、なんて悦に入って有難がって食べていて、誰も気付かず、不審にも思わず、そして賞味期限を呆れるほど過ぎた食品を食べても誰もお腹をこわさず、死にもせず、「最近あそこの味は落ちたね~」という評判も立つこともなく今まで来たって事じゃないの?

偽装がこれほどはびこり、罷り通っているのは、取りも直さず、違いが分からずブランドを有難がっている消費者が圧倒的多数だからだ。違いの分からない消費者を騙す事など赤子の手を捻るより簡単かもしれない。

そろそろ消費者も業者ばかり責めていないで、自分のブランド信仰を反省するべき時ではなかろうか?せめて味が分かるふりをするのは止めましょうよ~。分かりっこないって相手にもうバレているのだから、、。味の分かる人はどんどん疑問の声を挙げて行く、分からない人は分かったふりして有難がらない、それだけで大分偽装は減ると思うんですけどね~。
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by bs2005 | 2008-07-24 05:18 | 異論・曲論  

ニッポンのお金持ちにモノ申す!

いかにも貧乏人ぽい、かつ、ひがみっぽい我ながら情けないタイトルだけど、今日は日本の現状を見るに耐えず、あえてこんなアプローチを取りたい。

色々な現場で日本は膠着化し、沈没しつつある。アジアの中でもその存在基盤が空洞化しつつある。八方塞りの道にどんどん深入りしているように見えるが、政治にそれを打開する力も無さそうだ。政治に全く期待出来ない以上、どこに突破口を見出して行くかという視点から、ニッポンのお金持ちに訴えたい。

アメリカはすさまじい格差社会だ。しかし、その収入の極端な偏りを多少なりとも救っているのは、お金持ちの社会的意識の高さだと思う。シリコンバレーに住んでいるので、超お金持ちの社会は友人を通して間接的にだけど知っている。基本的に、金銭的には勿論、自分の時間を何らかの社会的事業に向けていないお金持ちは居ない。先頭に立ってやっている。超多忙な人でも、その時間は割いている。お金だけ出して済ましている人は居ない。私の知る限り、、。

そういう人達が皆心からやっているかというと、そうでもない面もあると思う。回りのお金持ちがやっていることを自分がやっていなければ白い眼で見られて、甚だカッコ悪いからやっているという人も、多分少なからず居るのではと思う。そうせずにいられない社会的風土がある。

勿論、そうやってお金持ち同士のネットワークを広げ、関係を深めて自分の仕事に生かそうという野心もあるだろうけれど、それはそれで良い。動かないより遥かにましなのだからとそういう動機を受け入れる風土がある。下心は何であれ、社会が良い方向に向かう活動なら大歓迎、下心は問わないという風土がある。

税金上も、そういう活動をするお金持ちをとても優遇している。そもそもの動機は税金逃れとか、税金に取られるより、自分のお金が直接、社会で生きる形で使いたいというものが一番だろう。

翻って日本はどうだろうか?たまに巨額の寄付を亡くなった後に残したり、生きている間にも寄付されたりする話は聞くけれど、金銭的にだけではなく、お金持ちが先頭を切って何か社会的活動をしているという話を聞くことがすごく少ない。精々、芸能人、スポーツ選手がチャリティーをやる位か?

勿論、目立たない形でそれなりの事をしておられる良心的なお金持ちもおられるのだろうけど、経済人のトップ、思想・哲学のトップ、芸術家のトップ、そうした人達が積極的に先頭に立って、民間に訴え牽引するというような形での社会的活動をしている話を滅多に聞かない。やっているとしたらPR不足が甚だしい。マスコミも、そういう活動があるのなら、もっと広く知らせて、一般の人がそれをバックアップ出来るようにするべきだ。

日本の場合は目立つと「売名行為」とか「偽善者」とかバッシングする傾向があり、お金持ちの活動を活発にさせない風土があるけれど、そういう傾向は猛省するべきだ。もっとお金持ちが自由に動けて、それをバックアップするような意識を持たなければいけない。人の下心に下司な勘ぐりを入れている暇があったら、とにかくバックアップするべきだ。

日本人は社会意識がとても低いと思う。下々に考えさせない教育の伝統が効を奏したせいか、圧倒的多数は、何があっても他人事という感覚。他人事ではないことなのに、他人事と思っている。そしてお金持ちも例外ではない。外国のお金持ちに比べると、すごく社会意識が低い。自分と自分の仕事のことしか考えていないようにさえ見える。

今の日本の現状をどう打開できるか?私は先ず、一般の人がもっと社会意識を持ち、発言し、ボランティアなどにも積極的に関わり、そういう雰囲気の中でお金持ちが知らん顔を決め込めない社会風土を作っていくことだと思う。そしてお金持ちに社会を良くする活動の先頭に立ってもらう。それを一般人はバックアップして行く風土を作っていく。

社会を良くしようと思っていても、いわゆるワーキングプアの人は自分の生活だけで精一杯だろう。それでも声だけでも挙げて欲しい。そういう人達を代表する雨宮凛さんのような活動にはとても意味がある。そうして一般の人、お金持ちはそういう声に耳を傾け、自分の出来る範囲のことを考えて行って欲しい。一般の人に比べても、お金持ちはそれだけの力を持ちながら、頑張り方が全然足りていないと思う。もっともっとリーダーシップを発揮するべきだ。

今の自分の生活に満足して、そんなことは自分に無縁のことと思って我が世の春を謳歌する気分なのかもしれないけれど、日本全体が沈没してしまったら、結局は自分達の所にもそのツケは回ってくる。やってはいるのかもしれないけれど、もっともっと見える形で大衆をリードする形でやる義務が、格差社会に於けるお金持ちにはあるのだと思う。

日本もアメリカのような格差社会に日々なって行っているようだ。格差社会において、お金持ちの責任は大きい。お金持ちが社会事業のリーダーシップを握っていかなければ社会は立ち行かなくなる。多忙は言い訳にならないと思う。いつ寝ているのかと思うようなアメリカのトップだって、そういう時間はきちんと確保している。私はニッポンのお金持ちの猛省と意識の改革を促したい。

そして政治に期待は出来ないけれど、せめてボランティア活動への優遇税制でお金持ちのそういう活動を促進してもらいたい。アメリカの「小さな政府」という概念は、お金持ちの自主的な社会への関与に支えられたものだ。それが無いところでいたずらに「小さな政府」を目指すと、今の日本のようなことになってしまう。「小さな政府」の社会、格差社会には、それなりの仁義があるべきだ。
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by bs2005 | 2008-07-18 22:32 | 異論・曲論