カテゴリ:異論・曲論( 205 )

 

らふぃさんから再び大変興味深いコメントを頂きました。

現在、連載中(^^;)の「アメリカは何処に行くのかーらふぃさんへの返信に代えて」の記事に、らふぃさんより大変興味深いコメントをまた頂きました。当ブログのコメント設定により読めない方達の為へのご紹介かたがた再び記事にさせて頂きます。ついでながら後半に私のお返事とそこに書き忘れたことを載せておきました。らふぃさん、有難うございました!

らふぃさんのコメントをじっくり読んで頂きたいので(半分、それを言い訳にしてますが)、(その3)の連載は少し先にさせて頂きます。肝心の部分がずっと先延ばしですみません。

<らふぃさんのコメント>

コメントと記事、ご紹介くださって本当にありがとうございます。
なんだかこんなに立派な記事でお返事というタイトルを頂いて、恐縮してしまいます。

大統領の宗教対策の話題も面白いですね。キリスト教諸派には現在、エキュメニカルと言う超教派対話に積極的な教派と、それを頑なに拒絶するグループがあります。

元は1960年代にバチカン公会議でカトリックが提唱し、それを行動で示していたのが前の教皇のヨハネ・パウロ2世でしたが、ルーテル、エピスコパル(聖公会)などがこれに賛同しています。(蛇足ですが、カトリックのこの動きが1960年代という、ケネディが自らがカトリックであるために苦戦した大統領選を結局勝利したのとほぼ同時期に起きたという時代の流れを併せて考えてみると興味深いものがあります。)

一方で、東方正教会やカルヴァン系諸教派の多くには、なかなか賛同できない動きがあるようです。Evangelicals(福音派)の指導者層はその代表的な様相を呈している訳ですが、現場の牧師や信徒たちの方がその意味では進んでいて、他教派との関係改善にきちんと向き合っていたりします。

それもWASP のアメリカで、実は単一教派としてはカトリックが最大の信徒数を擁していた20世紀が終わって、Evangelicalsが最大教派となったことの一つの現れかもしれませんが…。

オバマの就任式での人選の話というのは、ある意味、政治的にこの対話の流れを後押ししたもののようにも見受けられました。教義的にはそれぞれが保守であっても、教派を超えた対話は可能であり、それをゆくゆくはキリスト教社会の中にとどめず、様々な宗教間でも実現させたいという意味かもしれません。

また、就任演説後、演説の中でアメリカを構成する者の中に仏教徒が含まれなかったことを残念がる声を日本では見かけました。私は仏教はあまり詳しくないのですが、成仏できる清らかな魂が非常に高い存在である一方で、衆生の魂は輪廻転生を繰り返すという厳しさや無常観を見ると、「宗教」というよりも寧ろ来世的発想が副次的である「哲学」のように受け止められている気もします。

もしかしたら、仏教にとっての信仰というのは、英語のworshipとは少し違うところにあるのかもしれないと思うこともあります。その意味で、「信仰のない者」の方に含まれたのではないかとも。そう考えていくと、多くの日本人は仏教徒であるというよりも、明確な教義を持たずに祖先や家族の魂のある彼岸の世界と現世の結びつきを非常にロマンティックに信じているとも考えられます。

宗教を持たないのではなく、信仰を持たずにいながら宗教的な人々もいる訳です。もしこの辺りの存在までをも就任演説の中で「信仰を持たない人」の中に論理的に含めたのだとすれば、これは確かにアメリカにおける宗教観の大変な変更ということだと思います。(アメリカ人にとっては、イスラムよりもわかりづらい存在だと思うからです。)

オバマ政権の知性であれば、いわゆる無神論者のみならず、このような方向性を汲み取っていたとしても驚きはありません。そしてそうであって欲しいとも願っています。アメリカが未知の存在を恐れて切り捨てることのない崇高さを示してくれればという希望もあります。

様々な立場があるということを想定し、その立場の考えを見越して対応を行うというのは、どの政府にとっても民衆にとっても難しいことかと思います。特に、自国についての報道には政治的にもイデオロギー的にも、様々なバイアスなしに行うことは(どんなに民主主義国家であっても)非常に難しいと思います。

アメリカの行動の冷静な分析という意味で、私たちにとって非常に役に立つのは、ぶんさんが仰る通りのNHK、それに加えてBBCではないかと私は思います。但し、NHKはアフリカや南米が絡むと弱く、BBCはアジアが絡むと多少弱いというのは、地政的にも仕方がないことかもしれません。

アメリカの報道の偏りについて私はぶんさんに心から同意します。その一方で、たとえば日本を厳しく分析できる日本のメディアがあるかと言えば、実はこれも BBC辺りが大切な番組を作っているのではないかということも感じています。

日本も含めて多くの国のメディアが、自国からの感情的感傷的反応に怯まず、他国が作ったものも含めて様々な情報を提供してくれるようになればと強く願います。唯一の超大国となってしまったアメリカの人々は、世界中がアメリカを見る視点と冷静に向き合わなければいけない国の運命を共に背負っているのではないかとも感じます。

私たちが情報に操作されることのないよう、情報から隔絶されることがないよう、情報だけが頼りということを、もっとメディアに訴えるべきなのかもしれません。これは日本もアメリカも同様に。

方向違いの上、とりとめもなく(更に長々に!)なりましたが、また続きも楽しみにさせて頂いています。ありがとうございました。



らふぃさんのコメントに比較して、私のお返事の方は大変見劣りしますが、一応、以下に載せます。(汗)

<らふぃさんへのお返事>

らふぃさん、こんにちは!

お忙しいのに、こんなに丁寧なコメント有難うございます。このコメントも記事にして紹介させて頂きますね。私一人ではもったいない大変参考になるコメントだと思いますので、、。

>>>日本も含めて多くの国のメディアが、自国からの感情的感傷的反応に怯まず、他国が作ったものも含めて様々な情報を提供してくれるようになればと強く願います。

本当にその通りだと思います。NHKのドキュメンタリー、旅行記などはアメリカでは見られない内容を持っているとはいえ、日本の報道にも大きい限界があると思います。今までも日本の報道の問題は触れて来ているので、今回の記事ではアメリカの報道の問題に焦点を合わせましたが、らふぃさんのおっしゃることに全く同感です。本当のグローバル化は、こういうことを抜きにしては実現しないでしょうね。

世界の平和にとって、情報がいかに大きい部分かという自覚が必要であり、その情報というのは、いわゆる知的層、指導層の情報交換だけでなく、庶民レベルでのお互いの庶民の現実を知り合うということが非常に重要だと私は思っています。

その意味で一般的な報道に限らず、以前にもちらりと書きましたが、映画、ドラマ等の映像文化というのは、平和に大きい貢献力を持っているように思っています。

その分野での交流も非常に大事だと思いますが、その分野でも、アメリカの一般の映画館では滅多に外国映画を見られないのも問題だと感じています。

西洋の興行映画のごく一部を除いては、特別な上映館に行かないと殆ど見られないし、地方ではそんなものもないし、、。こういう現状が意図的かどうかまではわかりませんが、「好戦的な」アメリカが都合のよい勢力にとって都合のよい現状に思えます。

らふぃさんの知性が、日本でとても必要とされていると思います。ご活躍、期待してます♪


お返事の方で書き忘れましたが、私のイギリス英語のヒアリング能力は大分アメリカ英語より落ち(更に!)、集中して聞ける時間が限られているので残念ながらBBCはたまにしか見ないのです。もう少し易しいレベルのイギリス英語で馴らしている段階で、、(汗)。でも、らふぃさんのBBCの高い評価を見て、もう少し頑張って聴いてみようかと思いました。オットは前から評価していたんですけどね、、、(笑)。BBCでは、是非、これをお見逃し無くというようなお勧め番組ありますか?

以前、らふぃさんは、私のコメントにお書きになったようなことはご自分のブログでは封じてしまったと言われてましたが、今回の大統領就任式の記事は、少しその解禁をされたように感じました。

オバマが変化をひっさげて新しい動きが出ている中、らふぃさんも、もう一度、差し支えのない範囲で結構ですから、BBCで伝えている日本を初めとした世界の問題などをブログでご紹介頂けたら、私を初め、アクセスが限られている人にもとても貢献すると思いますので、すごく嬉しいのですが、、、勝手ながら、、^^; あ、ひさこさんもお喜びになると思います。^^ 

日本の報道の歪みを直して行けるものは、ブログ等のネットの力のように思っているので、つい、らふぃさんのような方への期待が高まってしまいます。無遠慮で強引なお願いをしてしまってお許しくださいね♪
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by bs2005 | 2009-02-17 02:00 | 異論・曲論  

アメリカは何処に行くのかーらふぃさんへの返信に代えて(その2)

「アメリカは何処に行くのかーらふぃさんへの返信に代えて(その1)」で、らふぃさんの大変興味深い啓蒙的コメントをご紹介しました。大分間が空いてしまいましたが、そのコメントへのお返事を書きたいと思います。コメントもご紹介したかったし、以前にお断りしたように私のお返事も長くなりそうなので、こうした記事の形にさせて頂きました。

(その1)と大分、間が空いてしまった上に、前置きが長くなりましたが、そろそろ本題に、、、。前半はらふぃさんのコメント、記事に触れ、後半はそれに加え、今までも何度か述べているアメリカの報道の問題を今までより具体的に触れています。


1.「統合」の核

らふぃさんの言われた「アメリカと宗教の関係は、日本の感覚で見詰めると完全に見誤ってしまう部分」は私も完全に見誤ってました。

私が二度目にこちらに来た頃は、学校や公的施設などで「十戒」が貼られていることへの抗議が起きたり、訴訟が盛んに起き出している時で、日本で学んだ「政教分離」の概念がそのまま通用してしまう状況だったので、国によって違うという発想すら出てきませんでした。とても目を啓いてもらった感じです。

アメリカに来て驚いたのは教育の場における宗教の影響が非常に大きいことでした。

ダーウィンの起源論など、日本では当たり前の理論として教えられるものが、人間は神の創造されたものとして、20世紀だというのに、この理論を教育の場に持ち込むことに反対する勢力の強さに驚きました。私の目からすれば、宗教を教育の場に持ち込んでいるとしか思えなかったので、らふぃさんのコメントで、そういうことだったのかと深く納得できました。

アメリカ人は多様な人種、文化、背景、歴史を持った人々の集合体ですから、彼らにとって「統合」が「のっぴきならないものであること」は感じてきましたが、その統合の中核にあるものは、「自由と民主主義の理念、平等・公平による人種の融合の理念」としか考えて来ませんでした。「統合」の一つの要素としての「宗教」という観点は、私の中で完全に抜け落ちていたものです。

私に限らず、日本人は一般的に無宗教(文化的影響は別として)なので、見落としやすい部分かなとも思いました。「見えざる国教」という観点はとても重要なものだろうと思いました。らふぃさんにいささかなりとも啓蒙して頂いた御蔭で、たまたま読んだオバマの就任式に触れた「オバマの見事な宗教対策」も、非常に興味深く、また理解もしやすかったです。

また、らふぃさんが「国民統合のための儀式としての就任式」の中で述べられていた「アメリカ人はジレンマの塊である。このジレンマがどこから来るかと言えば、「理念」から来る。「理念」と「現実」の間のギャップに苦しんだり、目を背けたりするジレンマの塊なのである。」という言葉にも深く深く頷きました。

「アメリカは、ソ連亡き今、世界で唯一の「理念の共和国」となっている。(略)しかしジレンマは必ず来る。理念の全てが実現することはありえないからだ。(略)二種類の「自由」が対立する。アメリカ人は「自由」を最大の共通認識とする一方で、「自由」の意味の受け止め方を常に模索し、悩んでいる。そして、置かれた状況によって異なるそれぞれの「自由」の意味を戦わせ続けてきた。」等々のご指摘は、感じていながら言葉に出来なかったものを的確に目前に取り出して頂いたような快感を感じました。(注:長文の為、全部を引用できないので、略した部分を共感していないというわけではありません。詳細はらふぃさんの本文の方をご覧下さい。)

アメリカを語る場合、「理念」の共和国という概念はとても重要であるように思います。

2.報道の問題


「アメリカにおいては圧倒的に多数を占める大都会から遠く離れた農村地帯の住民は、報道以外に世界の動きに触れる術を持たない。世界中から訪れる人々が切磋琢磨して情報交換を行う空気を知らない。彼らはただ、自分たちが正しいと教え込まれた「自由」を信じて、政権が推し進めた戦争を後押しした。民主主義こそが世界を救うと信じた極めて善良な人々なのだ。」


ここも正に言いえて妙で、アメリカの庶民の状況をとてもよく表現していると思いました。そしてらふぃさんが、報復に反対の立場を打ち出したオルブライト氏が報道からシャットアウトされた例を挙げておられるように、庶民が、唯一世界の動きに触れる報道の実態にも、非常に問題があります。politically incorrect の報道は出来ないがんじがらめの風土があります。政府の批判も民主、共和両党への批判も活発にされますが、全てpolitically correct の範囲に留まるものです。

また、庶民にとっては一番身近な報道媒体のテレビで、日本の場合は、NHKを中心に素晴らしいドキュメンタリー、旅行記などが日常的に放送され、日本を一歩も出たこともない人でも、世界の色々な国の庶民の姿を初め、ガザの現状、イランの人々の現状、アフガニスタンの現状などを、完全な形では勿論無くても、かなり詳細に見ることが出来ます。同じ人間としての共感を育てる基盤があると思います。

こちらでは大多数の庶民に届く形でそういう詳細を見られる番組は殆ど見られません。結果として、イスラムとかsocialismと聞くだけで震え上がるような庶民が沢山居ます。この感覚は、日本の戦時中の鬼畜米英に似たものを感じます。彼らにも家族があり、人間として同じ苦しみ、喜びがあるのだという感覚が育っていない感じがします。

テレビの政治評論家、キャスターなどでも、この政策はsocialsmだと言うだけで批判になっていると思っているような傾向が強いです。そこで終わってしまって、何故それがいけないのかという内容に行かない、そういう中味の検証抜きのレッテル貼り批判がまかり通っています。そういう人達は、「日本の資本主義は資本主義じゃない。資本主義を装った社会主義だ」と言い、それで論議が済んだように思っています。

たまたま先日、そういうレッテル貼りの論議が続いた中で途中から参加した評論家が「socialismだから悪と直ちに言えない。そういうものが必要な段階に来ているのかもしれない。そういう検討も必要だ。」と言った時は、非常に新鮮な感じがしました。そういう視点が、もっと増えて欲しいです。

こんなに世界中から沢山の生身の人々が集まって、人種の多様さに関しては圧倒的な国である筈のアメリカなのに、日本人よりもはるかに世界の民衆の生の生活・実態に無知である理由は報道だけのせいでもありません。

その国から来ている人々も、それを積極的にアメリカの庶民に伝えていないと思います。伝えても当たり障りの無い範囲に限られていると思います。それは一つには人種差別への恐れや、アメリカに溶け込まなければという心的プレッシャーと、もう一つはpolitically incorrect への恐れから、沈黙してしまうからではないかと思います。本音はその民族の中だけで語り合っていて、外には余り伝わっていない、というような傾向があると思います。

にも拘らず、沢山の人種が一緒に暮らしているということで、他の国より世界のことは分かっている幻想があり、世界に対して目が開かれていないことへの自覚が非常に乏しいのも、とても危険なことだと思います。こうした事が指導者の号令ですぐに燃え上がってしまうアメリカの「好戦性」を生んでしまっているように思います。

自国の外で起きていることに無知のまま放置されていることは、自国の若者の兵士としての現実にも無知という事になってしまっていますし、世界で行っている非政府団体による援助も、場合によっては大国主義的傲慢、西洋的価値観の押し付けとして受け止められていることにも無知になっていると思います。だから、アメリカはこんなに世界に尽くしているのに、、という考えから抜け出られません。

兵士の問題はアメリカ兵の暴行等の問題に留まりません。NHKスペシャルで州兵としてイラクに送り込まれた若者達が、呆れるほどのお粗末な装備で戦地に送り込まれ死んでいっている現状、その現実に打ちのめされた彼らが涙ぐみながら、弟妹に大学の費用の為に州兵に応募したりするなと呼びかける姿が報道されていましたが、アメリカ国内ではこういう事は、一切報道されません。

戦争をしてでも、自分達の利害を守ろうという勢力には真に都合のよい基盤があると思います。単純過ぎるかも知れませんが、NHKスペシャルを見ていると、この番組がアメリカの庶民に届く形で放送されたら、アメリカの世論は大きく変わるのではないだろうかと思わずに居られないことがよくあります。



案じた通りに長くなってしまいました。(汗) まだタイトルの「アメリカは何処に行くのか」という部分まで辿り着いていないので、申し訳ありませんが、続きは(その3)で、、。ここまで長くなるとは自分でも思っていなかったのです。すみませ~ん。(汗、汗、汗)



関連過去記事:
  「オバマの言葉の読み方」
  「善魔の思想を支えるもの」
  Patirotism - この神聖にして不可侵なるもの
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by bs2005 | 2009-02-15 03:54 | 異論・曲論  

真のセーフティ・ネット

最近の胸が痛くなるような経済の悪化状況、派遣切りの悲惨な現実、ワーキングプアと言われる人々の状況、そういう問題が論じられる中で、日本社会にセーフティ・ネットが不在であること、それをもたらした政治の貧困が頻繁に論じられるようになってきている。

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by bs2005 | 2009-02-08 02:53 | 異論・曲論  

アメリカは何処に行くのかーらふぃさんへの返信に代えて(その1)

昨年の11月8日付けの記事のコメント欄が、らふぃさんとのチャット状態になってしまいました。そもそもは、就任式に行く気だった私に、以前ワシントンに住んでおられたらふぃさんが色々アドバイスを下さったり、私の能天気な質問にご親切に答えて下さったりした部分が大部分なのですが、その中で、らふぃさんは彼女らしい実に知的で啓蒙的なコメントを残して下さいました。

私のブログのコメント欄設定はエキサイト・ブロガーでないと読めない設定になっているので、その部分を引用させて頂きます。アメリカをより深く理解する上で大変参考になるものですので。

就任式に関する部分は個人的なことなので省きました。またクリントン弾劾問題は、ヘンリーさんの飛び入りもあって大激論になったのですが(^^)、既に別記事で述べているので省きます。また彼女のコメントはとても丁寧に詳しく書かれた長文のものなので、ここでは、らふぃさんのコメントだけを載せることにします。

私の感想については、その2で書きたいと思います。皆さまにもじっくり考えて頂きたい中身の濃いものなので、しばらく時間を置いてから、その2は出します。出せるかどうかまだ不明ですが、らふぃさんのコメントを読んで頂くだけでも、この記事を書き始めた意義はあるかと、、、(汗&笑)

アメリカと宗教の関係は、日本の感覚で見詰めると完全に見誤ってしまう部分で、日本のメディアも基本的に全部誤解していると私は考えています。アメリカの政教分離は、そもそも他の国の政教分離とは方向付けが逆なのです。それはピューリタンが英国国教会の迫害から逃れてきたというアメリカ植民地の経緯を考えると明らかです。つまりアメリカの政教分離は、宗教を政治から守るためのものです。日本やヨーロッパで革命の起こった国々での政教分離は、宗教が政治に介入しないよう政治を守るためのものです。

どちらを守ることに重きを置いているか。これは、日本語の「政教分離」が、「宗教」と「政治」の分離であるのに対して、英語の同じ言葉が"Separation of Church and State"となっており、「教会」と「国家」の分離と言っていることからも説明づけられます。つまり、アメリカでは国家と教会が一体となった「国教」を置かず、信仰の自由を守る(憲法修正第一条)ことに重要性があるのです。

そして、政治家に対してもその宗教活動が政治によって制限されることは望ましくないと考えているという、日本とは全く違う背景があることを理解することがとても大切だと思います。もっとも、最近はアメリカの人達もこの部分を忘れて、どうして他の国の政教分離のようになっていないのかと疑問を感じる人も増えてきているようなのですが。

更に、アメリカの基本は、人々が共通の過去を持たず、理念によって共に目指す未来にこそ共通性があるということもよく指摘されています。だからこそオバマスピーチにもマケインスピーチにもくどい程現れる「統合」を意識的に政治的に目指さなければいけないのですが、国歌・愛国歌・国旗・国旗への忠誠・歴史教育に加えて、大統領をはじめとする政治家が口にする「神」もまた、この統合に必要な材料と考えられています。

社会学者のRobert Bellahという人が、この国民を統合するための「神」について、基本的にユダヤ・キリスト教的神であれば、国民の9割近くが信仰し、その意味でアメリカ国民を緩やかにまとめることのできる"Civil Religion"(市民宗教)となる、と表現していますが、これを翻訳したり研究したりしている日本の森孝一さんという学者は「アメリカの見えざる国教」という言葉をCivil Religionにあてています。

正に言い得て妙で、アメリカには国教はないけれども、国民の統合のための非常に緩やかで政治的にもどこにも書かれていない、けれども極めて政治的な「見えない国教」があると表現したのです。その意味で、大統領は政治的指導者であると同時に、アメリカ人にとっては精神的指導者でもあるという分析がされています。

大統領が政策で弾劾されるより、モラル問題で弾劾されるケースの方が多いのはこのせいかも知れません。大統領が聖書に手を置いて宣誓を行うことも、それを「大統領の牧師」と言われたビリー・グラハムが立ち会うことも、実はこの「アメリカの統合」においては、とても重要な意味があるのだと思います。

私なりに思うところですが、「十戒」については、「見えざる国教」的には当然問題のないものであり、寧ろアメリカ人の倫理の拠り所として、教育現場のみならず、州裁判所に石碑があったりするのですが、この価値観が非常に揺らぐのが1990年代後半です。ぶんさんが仰る教育現場での疑問も、アラバマ州裁判所の石碑問題もこの頃から表で問題視されるようになりました。

これは、アメリカへの移民の内容が変わってくる時期と重なっています。未だにヒスパニック(=カトリック)移民が多いとはいえ、この頃からイスラム系の移民が非常に増えてきて、様々な発言を初めとしてアメリカ国内でのプレゼンス
(存在感*)を増してきます。

同時に、中国、韓国、インドをはじめとする非キリスト教文化圏移民も国内で重要性を増し、ユダヤ・キリスト教文化を基盤とする「見えざる国教」を基盤とする伝統的価値観が揺らぎ始めます。2001年のテロというのも、アメリカ国内のイスラム系のプレゼンスの変化と決して無縁ではないと思われます。

クリントンの弾劾がうやむやに終わった件については、私は二つの理由があると思います。
一つは、その政権がリベラルな民主党であったことです。アメリカの伝統的価値観に対して保守の立場をとる共和党に対して、「変化・革新」を謳う民主党では、重要な政策(これが二つめの理由ですが)の前に、この伝統的価値を後回しにできるという側面がありました。

これが共和党で、内部からの反発を受けたとしたら逃げ切れなかったでしょう。共和党のニクソンがウォーターゲートによる弾劾前に諦めて辞任したことからも私はそのように思います。では、保守系が守るアメリカの伝統というイメージは何かというと--

1)ニューイングランドに始まる、父親を中心とするピューリタン的(プロテスタント)キリスト教による信心深い父系社会。これが共和党による妊娠中絶や同性結婚の反対に繋がります。

2) 西部開拓の途中で立ち向かった厳しい自然を、人間の力で征服するという、自然や先住民文化に対して民主主義を旗印に掲げて征服・勝利させるマッチョな社会。自然は共存する対象ではなく、征服する対象なので、アメリカの保守にとっては環境問題は共感しがたく、ライフルも手放すことができません。

3)連邦政府による中央集権よりも各州による地方分権を目指した「インテリな農民」によるジェファソン的な南部の田園社会。南部は、古くは奴隷を必要とする大農園による綿花・たばこ・砂糖栽培に経済を頼り、今は石油などのエネルギー系の産業に依存しています。どちらにしても簡単に他の産業に移行できない程の巨大な初期投資から始める産業に依存せざるを得ない社会で、保守に傾きます。また、このような大規模産業を管理する層にとっては市場でも自由競争を続けた方が生き残りやすいので政府が経済に介入しない「小さな政府」を目指します。

この三つの地域のイメージは概ね今回の共和党の選挙人獲得州と一致していると思います。

民主党はほぼこの反対側に位置すると考えます。北部的でこれらの価値観の対極にあり、自由で新しい価値観へと転換しやすい民主党の大統領に対する弾劾ということで、クリントン弾劾については、伝統的父系社会の長としての資質を問われたものの、ニクソンのようにその価値観に厳しく縛られる共和党の場合とは扱い方が違ったと思われます。

「アメリカの統合」をアメリカの伝統的価値に基づいて遂行しようとしたブッシュ政権が世界から孤立してしまったのは私たちが見てきた通りです。ブッシュ政権は、キリスト教右派を基盤とする共和党のグループに支えられて、この伝統的価値にこだわる余り、そしてその価値を信奉する人々の権益を守ろうと躍起になった余り、国連や国際世論を軽視し、独断的な方向に走ってしまいました。

この点では、民主党による政権は国際協調の点でもっと期待が寄せられると思います。元々国際的な問題よりも国内経済・社会問題を重視する方針の党ですから、なるべくアメリカの負担を少なくしながら世界のリーダーシップをとりたいと思っているところもあるのですが。オバマ氏は人種混合の進んだハワイやインドネシアで育った国際感覚のある人ですから、それを良い方向に活かしてくれればと願います。


*私個人に向けてのコメントで使われた言葉で、一般的にはまだ外来語として定着していない英語だと思いますので、らふぃさんの意味されたものと少しずれてしまうかも知れませんが、勝手に訳注させて頂きました。(汗)

同時に是非お読み頂きたい記事:

ひさこさんがご紹介されていたマハティール氏のオバマ大統領に宛てた手紙
らふぃさんの「国民統合のための儀式としての就任式」
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by bs2005 | 2009-01-30 15:19 | 異論・曲論  

罪と罰ーヘンリーさんへの返信に代えて (その2)

「裁判と死刑ーヘンリーさんへの返信に代えて (その1)」で、出来るだけ早く(その2)を書きますと言ったのに、もう二週間以上経ってしまいました。すみません。

テーマが重く難しいのと、お忙しいヘンリーさんにはこんな駄文を読む暇はないだろうし、他に読んでいる方はおられないかも知れないし、段々、書かなくても良いかという気にまでなりかかってしまって、ますます遅くなってしまいました。(汗)

相変わらず確固とした立場は選び切れていず、迷ったままですが、これから死刑判決の絡む裁判への関与を求められる方もおられるかも知れません。今日の報道によると国民の63%が死刑判決への関与に反対しているそうですが、迷いは迷いのままの記事でも、そうしたことを考えるもう一つのきっかけになれば、と思って重い腰を上げることにしました。

前置きが長くなってしまいましたが、更生可能性という判断が基準になるのではないかという私の意見に関して、ヘンリーさんはこう書かれています。(その1)と重複しますが、再度引用させて頂きます。

私は正真正銘の極悪犯を間近に見たどころか、個室で面と向って治療をしたこともあるので知っていますが、この世には「更生能力ゼロ」の人間が想像以上にたくさんいます。更生させる、という観念自体が既になにかロマンチックな夢でしかないというのが私の見た現実です。そんな夢みたいな観念を基準に判決を下すことには大反対です。これって、つまり私は死刑制度反対ということになるのでしょうね。

(その1)で、そもそも裁判というものは人間が犯した罪を裁くという意味において、観念からも主観からも自由にはなりえない、客観的データにのみ基づくとしたら、判決はコンピューター任せに出来る筈で、そもそも裁くという行為の難しさはそういう具合に行かないところにあると述べましたので、ここでは更生可能性と言う時の私の考えていることを書きたいと思います。

私自身は幸い(?)、更生能力ゼロの人間に直接接したことはありません。ただ、そういう存在があることも、少なくないことも間接的知識の枠内ですが知っています。そういう存在が少なくないということに、疑問を挟む余地は無いと思います。

逆にだからこそ、更生可能性がある場合、それを考慮に入れない訳には行かないのではないかと思います。更生不可能な人間が少なくないとしたら、逆にそういう中で更生可能性を持つ人間を、大勢がそうだという理由で切り捨てることは出来ないのではないかと思うのです。

(その1)でもちらりと書きましたが、私が更生可能性という場合はあくまで人間としての更生可能性です。死刑にするかどうかが問題となるような事件で刑期を終え釈放、社会に復帰するというようなことは考えていません。一生、獄の中で過ごす終身刑のみが死刑の対極にあります。

また、再生「させる」という外からの観点も余り無いのです。人間としての更生というのは、その人の中に良心の目覚めが生まれてくる可能性があるかどうかという意味です。それがちらりとでも見えるか全然見えないかということです。本人の中にそもそも可能性が無い場合に、更生「させる」ということが外から可能なのかは非常に疑問に思います。

罰ということを考えた場合、死刑という形で葬り去ることが本当の意味で罰になるのか私は疑問なのです。犯行を犯した人間に少しでもその良心が芽生えることがあるならば、その良心の呵責の煉獄の中に被告を一生置くことの方が、罰として、また償いとしての意義があるような気がするのです。

その良心が芽生える可能性が無ければ、終身刑にしてもその罰としての意義は無いでしょう。ヘンリーさんの言われるような更生ゼロの被告の死刑は、私の場合は逆にやむを得ないような気がして、死刑反対という立場も取り切れていません。

ただ、私は犯罪という行為に人間の業の究極の姿を見る思いがして、犯罪心理学、犯罪ケースの本はかなり読んでいます。(家族に気味悪がられながら、、・笑)、そういう中で知識として得たものは、いわゆる極悪人と言われる人の育った過程です。

殆どがすさまじい虐待、あるいは徹底した無視、放置、ミルクも与えられない、抱かれることもない、おむつも替えられない、極端な場合はオーブンに投げ込まれるというような、愛情を全くかけられなかった人々であるそうです。

両親共、あるいは片親で、教育のレベルも低く、貧困で、子供を顧みる余裕も育て方も知らず、親自身がひどい虐待の犠牲者だった場合も少なくない、愛されたことが無いから、愛し方もそもそも知らない、愛そのものを知らないという場合が非常に多いのです。親がそもそも居ず、愛情の一切与えられない場所を渡り歩いたような人も居ます。

一方、裕福で社会的に高い地位に居る両親に育てられながら、自分勝手そのものの事件を引き起こす人も少なくありません。そういう場合は物は自由に与えられながら、両親の細やかな人間的愛は受けてきていない、、どちらも決定的に愛情にかけた生い立ちなのです。

人が人を裁くという問題に立ち返ると、完全な人間が居ない以上、完全な親も居る訳がありませんが、そこそこに一生懸命に、それなりの愛し方で子供を育てようとした親に育てられる機会に恵まれた人間が、全く愛の欠如した環境で育った人間に罰を与える資格があるのかという問題にもなってきます。

私は人間は環境に大きく影響される生き物だと思っているので、自分が同じ環境に生まれても、極悪人にならなかったとはとても思えません。また色々読んでいると普通の環境に生まれても、罪を犯すかどうかは紙一重の気もします。何度も犯罪を繰り返す場合は別としても。これから先、全く犯罪と無縁でいられるかも100%の自信はありません。人間というのは追い詰められたら何をするか分からない存在ですから。

そういう具合に考えて行くと、そもそも死刑にする資格は誰にも無いような気もしてきます。そこで考えるべきだろうと思う要素がもう一つ出て来ます。ヘンリーさんが主観的、あいまいとして否定されている「被害者、遺族の心情」の問題です。

ごく最近の例ですが、女性を殺し、発覚を恐れて遺体をトイレに流した事件があります。犯人は、法廷で消え入るような声で「こんなにひどい事件を犯したのだから死刑しか無い。死で償いたい。」と言っているそうです。

私が言ったような更生可能性ということで言えば、少なくとも良心はありそうな犯人ですが、私の心情では、この場合は被害者、遺族のことを考えると死刑にするより他ないのではという気がします。こういう犯罪を死刑にしないということは、遺族に死刑を言い渡すに近いことのように思えてしまうのです。

遺体をトイレに流すというような反社会的な事件は被害者側の心情だけでなく、社会規範を守るという要素も出てくると思いますが、、。

しかし、同時に犯人の望む通りに死刑にして、それで本当の罰になるのか、おのれのおぞましさに一生向き合わせるべきではないのかという考え方もあり得ます。

結局、考えれば考える程、答から遠くなる感じがします。ただ、裁判という制度を認める以上、他人=裁判官がそれをやっている内は良いけれど、自分が裁判員となったら、人に人は裁けないという論理を持ち出すことは許されないと思うのです。制度を認めるということは、人が人を裁くことを認めることに他ならないのですから。

そして、犯罪というものが客観的データだけで決められるような単純なものではない以上、また、客観的データそのものの信憑性が裁判員制度では保障し切れていない以上、(その1)で述べたように、裁判というものは、あいまいなものから逃げられない、主観と主観をぎりぎりまで突き合わせて、個々のケースを具体的に徹底的に論じて、可能な限りの客観性に辿り着くことを目指して行くより他ないものではないかと思います。結局、堂々巡りの返信ですみません。

今更になりますが、ヘンリーさんが結局私の場合は死刑制度反対になるのかもと書かれてましたね。更生可能性の無い極悪人を例に出されたので、むしろ死刑賛成の意見に思えたのですが、あいまいな基準で死刑かどうかを決めるのに反対だから死刑そのものにも反対ということでしょうか。そういう立場もあり得ますね。

私の場合は死刑を完全に否定し切れないからの迷いであるかも知れません。あいまいなものを基準にする位なら、いっそ死刑は完全に否定するという立場の方がすっきりするかもしれませんが、ヘンリーさんが実際に会われたような極悪人を生かし続けるというのも、私にはすんなり納得出来ないので迷いが止まりません。

途中までは同じ考えでも、正反対の結論が出かねない、それが裁くということの難しさ、死刑を語る時の難しさでもあるんでしょうね。こんなまとまりの無い返信がこんなに遅くなってすみませんでした。でも、ヘンリーさんのお蔭でずっと考え続けることが出来ました。有難うございます。
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by bs2005 | 2009-01-28 06:17 | 異論・曲論  

台湾式定額給付金

定額給付金の振込み料だけで150億円も掛かるのだとか、、。ますます膨大な無駄遣いの感が強くします。

先日のNHKのニュースで見ましたが、台湾でも同じような給付が行われたのだそうですね。ただ決定的に違うのは現金でのばらまきではなく、券を発行し、使用期限を設けたものだそうです。また、それを使って買い物をすると、その店でその倍額位の割引券がもらえたり、航空券なども、その券を使うとすごく安くなるとか、、。

これならば、タンス預金のようにしまいこまれる恐れもなく、短期間の内に波状的な経済効果もある。振り込み料も要らない。使わない場合も税金の無駄にはならない。どうしてもばらまきたいなら、せめてこんな形にしてもらいたいです。

日本政府は台湾政府にも大きく差をつけられ、頭の悪さを露呈してしまった感じがしますね~。(涙)
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by bs2005 | 2009-01-22 07:43 | 異論・曲論  

付ける薬が無い、、、

定額給付金に78%反対の世論調査結果が出たという。

それなのに麻生さんは、三分の二で再可決をしても、定額給付金は通すと言っているそうだ。
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by bs2005 | 2009-01-12 05:41 | 異論・曲論  

裁判と死刑ーヘンリーさんへの返信に代えて (その1)

私のブログの設定の為、お読みになれない方もおられると思うので、ヘンリーさん私の記事に下さったコメントを先ずご紹介させて頂きます。

続き
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by bs2005 | 2009-01-11 05:36 | 異論・曲論  

裁判員制度を導入する前に必要なもう一つのこと

裁判員制度は、主体的にものを考えない傾向の強い日本にとって、究極的には国民の発想を変えて行く良い制度になりうる可能性を持ったものです。

でも、私は今、こんな形で導入することに反対してきました。そもそも日本ではきちんとディベートをする教育を受けてきていないのです。インドなどでは小学校からやっているそうなのに。そんな中できちんとした議論が出来るでしょうか。特に空気を読むことが美徳とされる社会で、、。


NHKで模擬裁判を見ました。そこで一般の人がしていた議論はなかなか主体的なものでした。法律の専門家の提示に対しても鵜呑みにすることなく、、。でも、彼らは自分から参加したそもそも主体的な意識を持った人々です。赤紙のように無理矢理呼びつけられた人々が実際にあんな風に議論が出来るかどうか疑問です。

何よりも問題だと思ったのは、そういう主体的な人々の間でさえ、死刑ということに関する理解があまり突き詰められていないように見えたことです。死刑制度反対論者へのきちんとした突き詰めた反論を持っているようには見えませんでした。

参加者は模擬裁判とは思えない真摯さで、真剣に検討され、実際には誰も死刑に処せられないのに、重く受け止めておられました。そのことは評価するべきだと思いますが。。。

日本人は今まであまり死刑制度というものを突き詰めて考えてこなかったのではないかと思うのです。

私自身がそうです。反対の意見を聞けばそうかと思うし、賛成の意見を聞けばそうかもと思う。廃止するのも、賛成するのも、どちらも極端に思える。そんなところでお茶を濁してきました。何故死刑があるかということも、被害者の心情、社会の秩序維持という観念的なレベルで納得していました。

今、世界で日本は死刑制度を続行している数少ない国だそうで、抗議も起きているとか。何も世界がそう言っているから、そのまま言うことを聞かなくてはとは思いません。でも、もう少し何故死刑にしなければならないのかということ、反対する人々の意見にもしっかり耳を傾けた上で、思考を突き詰めた土壌があるべきではないでしょうか。

残虐非道な連続殺人を犯すような人は、子供の頃、目をおおうような虐待、放置をされ、愛情の何たるかも知らずに育った人であることが多いそうです。だからと言って被害者の家族の心情を無視してよいとも思えません。社会の秩序も考えなくてはいけないでしょう。

私は確固とした信念を持てているわけではありませんが、被害者の更生可能性があるかどうかが、死刑かどうかの重要な決定用件になるような気がします。更生可能ということは同時に罪の重さに目覚めて、そのことを自分の十字架として針のむしろの上で生きていく可能性があることと思うのです。更生可能性が無く、従って罪の意識もなく、のうのうと生き延びるとしたら、被害者の心情から言うと忍びない気がするのです。

NHKの模擬裁判では一般人でたった二人以外、法律関係者の中では全員が、それを理由にせずに更生可能性は大きそうな被告に、死刑判決を下したことにショックを受けました。特にこれだけ日本の死刑制度が海外で非難されている時に、、。

暴力団に追いつめられていたとか極限の心理状態だったろうという情状酌量の余地もあると認めながら、犯行後、自首をしなかったことも大きい要素になりましたが、自首をしないということは果たして死刑に値するほどのことかという疑問も残りました。

同時にやはり法律専門の人々の意見に大きく引っ張られている傾向も感じました。一般人を仲間に引き入れることで、自分達への風当たりを弱くする為に裁判員制度は導入されたという見方も、あながち外れていないかもと思いました。

死刑というのものをどう考えるのか、もっと国民的に広い議論が為されるべきで、一般人が死刑かどうかを決めるような裁判に参加するのは、それが充分為されて、死刑というものに対する色々な観点があることがしっかり共有されて初めて、各人の意見が意味を持ってくると思います。

現在の裁判員制度では、死刑反対の人は裁判員から却下されるとか。(それを口実に逃げることも可能ですね・笑)。そもそも死刑はあって当然、死刑制度反対の論拠はよく知らないという考え方の人ばかりで決められる死刑、、、改めて、現在の早急な導入に強い不安を抱きました。

関連記事:
裁判と死刑ーヘンリーさんへの返信に代えて (その1)
罪と罰ーヘンリーさんへの返信に代えて (その2)
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by bs2005 | 2008-12-19 03:46 | 異論・曲論  

気になる質問

日本の報道番組を見ていると最近、気になる質問がある。それなりに評価しているキャスターからも出てくる。

「オバマ氏が大統領になると、中国の方を優先して日本はあまり重要に扱ってもらえないのではないでしょうか」

日本の中だけで訊いている分にはまだ許せるけれど、アメリカとの同時中継なんかでアメリカの識者や政治家にも訊いている。ひぇっと恥ずかしくなる。

アメリカにとって、中国はずっと日本よりインパクトの強い優先して来た国だ。日本が大事だったのは、よく追随してくれるからに過ぎない。重要だったというのとは全然違う。中国の高官が来ればマスコミも大騒ぎするけれど、日本からは首相が来たって滅多に報道されない。扱い方がそもそも違う。

オバマの前だってそうだったのだ。もういい加減にアメリカが日本を重要に思ってくれるか、優遇してくれるか、などという発想は捨てたらどうだろうか?その発想自体が媚びていて卑屈だ。どんなに力の差があったって、お互い独立国の筈。彼女と私のどっちを取るの?みたいな質問に聞こえる。

日本は日本の道を歩む。日本にとって有効な道を歩む。それが相手にとっても、有益である国と関係を深める。相手がどう思おうと関係ない。主体的な歩みが最も大事なことの筈だ。自分の価値は外から与えられるものではない。中から創り上げるものだ。中に独自の価値があるものだけ外からも評価される。

勿論、相手に大事にしてもらうことは嬉しいことには違いないけれど、そんなことは意地でも訊かないでもらいたい。それ位の誇りは持ってもらいたい。追えば逃げる、逃げれば追う。きっと国の関係だってそう変わらないだろう。利用価値だけで評価される「都合の良い女」のような存在はもう終わりにしたいものだ。
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by bs2005 | 2008-11-19 01:59 | 異論・曲論