カテゴリ:異論・曲論( 205 )

 

淀川長治さんの遺産

自分と信じるものが違うということーそれが宗教であれ、政治であれ、何であれーを理由に、相手の意見を聞こうともしなかったり、相手の意見から取り入れる柔軟な姿勢を持たないことは大きな損失だと思う。

私はDr. Lauraをよく引き合いに出すので、娘たちは私を彼女の崇拝者みたいに思っているけど、彼女の戦争に関する考えも、ホモセクシュアルに関する考えも同意できないし、彼女の信じるユダヤ教とは全く無縁である。

それでも、彼女が人間関係で言う事には真実がたくさんあると思う。その部分は素直に聞きたいし、学びたいと思っている。彼女は今の戦争を支持する立場の人だけど、率先しながら、自分の子供は安全な所に大事に置いている指導者たちとは違う。一人っ子の息子は、今、戦地に兵士として行っている。口先だけでない所は偉いと思う。

たまたま、分かりやすい例だから、彼女を挙げたけど、自分と違う人、自分の嫌いな人にも耳を傾け、吸収すべきものは吸収する姿勢は大事だと思っている。その人が自分の言葉に誠実である限り、私は聞く姿勢を守ろうと思っている。本人が信じてもいない事に耳を傾けるのは、時間の無駄だと思うから、口先と裏腹の考えの人にまで耳を傾けようとは思っていないけど。

食べ物と同じ、人の好き嫌いは少ない方が良い。嫌いなものが少ない程、その人は円満で成熟しているのだと思う。淀川長治さんは「嫌いな人に会ったことがない。」と言い続けていた。凄いなと思う。嫌いなものが多ければ多い程、その人の器量は小さいのだと思う。笑って許せるものが少ないという事だから、

私もかなり好き嫌いは激しいけれど、淀川長治さんの言葉はいつも自分に反省を促す。せめて、食わず嫌いにならない姿勢と、嫌いでも耳は傾ける姿勢を心がけたいと思うし、好き嫌いは克服できなくても、それを自分の器量の小ささとして謙虚に反省する姿勢は心したい。そう思えるのは、会ったことのない淀川さんが、私に残してくれた遺産だと思っている。
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by bs2005 | 2005-08-05 05:45 | 異論・曲論  

「縁」のダイナミズムの中で

人間は色々な縁の産物である。良い縁もあれば悪い縁もあるが、その全てを集約したものがその人を形づくる。

一番最初の縁、つまり、親との縁は決定的に重要である。往々にして、親との縁が良くないと、それ以降も、意図しなくても悪い縁、悪い縁とつながって行ってしまう事がある。自分にとって本当に良い縁か悪い縁かの判断が、出来なくなってしまう為でもあるように思う。

そういう悪い縁によって形成されてしまった自分を、良い縁に向かって踏み出すのすら苦労する人もいる。その反対に、最初の縁に恵まれて、自分では意識しなくても良い縁、良い縁とつなげて行ける人もいる。それがどんなに幸運かも気付かずに。

自分の人生が順調で、大きい過ちも犯さず生きてこられたとしたら、自分の恵まれた縁というものを振り返ってみる、そうして感謝の気持ちとともに、自分を形成してきたものが、そういう恵まれた縁なのだということに、謙虚な気持ちを持つべきだろう。

過ちを犯した人を、高みに立って裁くべきではない。その人が恵まれなかった良い縁、その人が過ちを犯さざるを得ない所まで追い込まれた、悪い縁への想像を持つべきである。自分が全く同じ縁の中で形成されて来たとしたら、自分は同じ過ちを犯さなかっただろうかという謙虚さを失うべきでない。

ひと昔前の話だが、私はある人から、理不尽な仕打ちの数々を、ただひたすら耐えてきた事を打ち明けられた。肉体への暴力ではなかったけど、女性として耐えられない、二重三重に屈辱的な形だった。彼女はそれを実に上手に隠していたので、はたから見たら、容貌にも恵まれ、彼女ほど幸せに明るく生きている人は居ない位に見えていたのだが。

その人が過ちを犯した。それを知った人達は後ろ指を差し、その人を村八分にした。目に見えぬ石を、彼女に向かって投げた。見えない石だけど、それはあまりに露骨で、彼女をずたずたに切り裂いた。彼女が必死で保ってきた明るさも、もはや演じられない位に。

その生活に勇気を持って終止符を打てなかった彼女を責めることは出来ない。彼女は父親によって虐待を受けて育った人でもあった。虐待を虐待として認識することすら出来ずに、それを受け入れて育った人だった。彼女は不当な仕打ちを受け入れるのみならず、自分に不当な仕打ちをする相手であっても、愛するより他に生き残れる道がないことを、幼い頃から学んで来てしまったのだ。悪いのは自分と思うように作り上げられて来ていた。

その理不尽に20年近く耐えてきた彼女が、その哀しみ、苦しみから逃れようとして犯した過ちは愚かだったかもしれない。弱かったかもしれない。しかし、そういう縁によって自分も形成されて来ていたら、自分はそういう過ちを犯さなかったと言い切れるだろうか。言い切れるとしたら、よほど傲慢な人か、人間の根源的姿を分かっていない人だろう。

後ろ指を差してはばかることのなかった人達は、彼女を形成してきた縁がどんなものだったか知らなかった。ただ、結果だけを見て彼女に石を投げた。たとえ、深い事情を知らなくても、過ちの裏には、そういう縁から生じてしまう弱さ、愚かさ、哀しさがあるのだという想像力を全く持たない人達だった。彼女の表面だけを見ていた。

その人達は、ブランドに身をやつし、高級な化粧品を使い、エステにも通い、美容に心を配る人達だったけど、その想像力のなさ、人間の根源的弱さ、愚かさへの理解のなさ、その事によって、自分達の醜さを余すところなく見せてしまった。「罪を憎んで人を憎まず」ーこの言葉の意味も、深さも全く理解できない愚かさも同時に。

私はどのような愚かな弱い人でも、寄り添う気持ちがある。人間は根源的にそういうものだからだ。ただ、「自分は正しい、自分は善だ、自分は過ちを犯したことも犯すこともないだろう」と、高みに立って人を裁く人だけは、軽蔑を禁じ得ない。そういう人は、自分の弱さ、愚かさにのたうちまわる人より、本当ははるかに愚かなのだ。人間がそういうものだという事すら見えていないのだから。

人を裁き、後ろ指を差す人々、、、もっとも醜く、愚かな人々だ。たとえ友人を全部失っても、私はこういう輩と友達にはなりたくないという激しい気持ちがある。もう何年も前の事なのに、私の生々しい怒りは消えない。その仕打ちによって、その人の心に出来た空洞は今だに埋っていないからだ。
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by bs2005 | 2005-07-27 23:49 | 異論・曲論  

再び、ロンドンで、

今日の日本のニュースは、古いニュースをまたやっているのかと、しばらく戸惑ってしまった。ロンドンで、又、、。2週間しか間が開かずに、、。

個体をいくら殺しても、思いが残る限り、その考えや憎悪が残る限り、同じことの繰り返しは避けられない。必ず、その思い、憎悪を受け継ぐ新しい世代は出てくるのだから。

思いをなくしていくのは、理解の道しかない。その思いを持った人間をいくら殺しても、返ってくるのは、もっと深い憎悪だけ。何故そうなるか、それを考えて行くより他にない。気の遠くなるような遠い道でも。

短期的に、秩序を戻す為に他の手段も駆使しなければならないとしても、王道はお互いの違いを理解し、受け入れる道を探すことにしかない。主要に追求されるべき道はそこにしかない。そこを疎かにして、何をしても、結局は堂々巡り。歴史は繰り返されるばかり。

王道はお互いを理解する事、違う立場をおもいやれる事、そういう愛の思想を求めて行くことだけ。憎悪を無くす思想を見つけて行くより他はない。命がけで、全存在を賭けて、そういう思想を見い出して行く事しか道はない。どのような違いがあろうとも、人類共存の思想を構築して行くより他ない。

どんなに甘っちょろい理想論に見えても、それしかない。本当の愛はそもそも甘っちょろいものでも、薄っぺらい理想でもない。もっと厳しく、もっと深く、もっと辛く、もっと哀しく、そして、もっと強力なものだ。そして、それしか平穏へたどり着ける道はない。

憎悪の思想に勝てるのは、愛の思想だけだ。人類共存の思想だけだ。個体は滅びても、思想は思想によってしか乗り越えられない。思想が個体を滅ぼすことによって滅びると思う方が、はるかに甘っちょろいのだ。はるかに非現実的な発想なのだ。

武器ではなく、思想なのだ。今、必要なのは、、。人類共存の思想なのだ。思想家は一体、何をしているのだろう。

こういうことを双方が徹底的に理解するまでに、どれだけの人々が、自分の大事な人を失わなければならないのか、、。どれだけの涙が流されなければならないのか。人類にはそういう叡智は永遠にやって来ないのだろうか。
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by bs2005 | 2005-07-22 09:00 | 異論・曲論  

3 「まず家族と向き合う」

山崎雅保さん(心理カウンセラー)はこう言っている。

   企業社会で鍛え上げたはずのコミュニケーション・スキルは、
   家族や地域社会では役立たない。

   仕事社会でのコミュニケーションはこなせるが、心の芯で行き交う
   親子・夫婦のコミュニケーションはおっくうになる。

   「この世でもっとも厄介な思いのままにならぬ生き物」と対峠しつづける。
   ここに分岐点がある。

   いかに職場で優秀であっても、生身のコミュニケーションを
   うとましがるのなら、人間としては未熟なのだ。

   ごく身近な者との並大抵ではないやり取りを経験せずに、深い
   コミュニケーションスキルが培えるわけがない。
     (日経新聞 生活 ファミリー 4ー16ー05)

私もすごく同感した。仕事の場でのコミュニケーションと家庭でのコミュニケーションは違う。それが本音のコミュニケーションであるという意味で。 生身であるからこそ、熱くもなる。時には加熱も。一番理解して欲しい相手に理解されない時の哀しさ、口惜しさに取り乱すこともある。

いつも理路整然、冷静とはいかない。論理的である事、冷静である事を前提にして、それ以外のものも受け付けないとしたら、家庭での本音のコミュニケーションは成立しない。

時には髪振り乱してにもなり得る。綺麗事では収まらない。綺麗事のコミュニケーションだけで通そうとしたら、家庭は芯の部分で空洞になって行く。褒められたことでも、美しいことでもないけど、つかみかからんばかりの勢いの口論だって有り得る。穏やかにすめば、それに越したことはないし、それを目指すべきであったとしても。

それを避けようとしたり、疎んじていると、本当のコミュニケーションは出来なくなる場合もある。生身のコミュニケーションを封じたら、家庭の中でも生身の人間でいられなくなる。

勿論、いかに親しい間でも、それを言ったらおしまいよ、という事はある。限度というものもある。生まれっぱなし、放し飼いで良い筈はない。些細な事に一々突っかかるのは感心しない。それでも、大事な所でのコミュニケーションは避けて通るべきでない。

生身のコミュニケーションだという事への覚悟は必要だ。それに向き合う覚悟が必要だ。そうでなければ、家族はただの仮面家族になって行く。家族は綺麗事で収めてはいけないものだ。それを忘れると、家族は芯で崩壊して行く。

家庭におけるコミュニケーションは、外でのそれとは決定的に異なる。その差を理解していない人間が多いのではないか。そういう, はちゃめちゃな、論理もくそもない、感情的に乱れに乱れたものでも、そこから理解が生まれて、絆が生まれるのが家族だ。そこで終らない強さを持って、初めて本物の家族だ。

生身のコミュニケーション抜きに、家族はほんものになれない。職場とはまた違う意味で、家族のコミュニケーションも真剣勝負だ。そこから逃げていたり、疎んじていては、家族は空洞化して行く。
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by bs2005 | 2005-06-15 23:40 | 異論・曲論  

見慣れた光景

最近、又かと再三思う見慣れた光景。

記者会見で企業のお偉方が雁首並べて頭を下げて謝罪する光景。同じ会社が再三やったりもしている。あるじ変われど主変わらず。会社が違うだけで、同じ光景。

情けないし、こういうのを見て育つ子供達も可哀想。でも、やっていた事は、昔から行われていたことでもあったりする。こうやって、それがいけないこと、謝らなければならないこととして、明るみに出てくるようになっただけ、良いことと思うべきなのだろうか、、、

わざわざ映像で流さないでもらいたい光景と感じてしまうのは、私だけなのだろうか?
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by bs2005 | 2005-06-15 00:13 | 異論・曲論