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3 「まず家族と向き合う」

山崎雅保さん(心理カウンセラー)はこう言っている。

   企業社会で鍛え上げたはずのコミュニケーション・スキルは、
   家族や地域社会では役立たない。

   仕事社会でのコミュニケーションはこなせるが、心の芯で行き交う
   親子・夫婦のコミュニケーションはおっくうになる。

   「この世でもっとも厄介な思いのままにならぬ生き物」と対峠しつづける。
   ここに分岐点がある。

   いかに職場で優秀であっても、生身のコミュニケーションを
   うとましがるのなら、人間としては未熟なのだ。

   ごく身近な者との並大抵ではないやり取りを経験せずに、深い
   コミュニケーションスキルが培えるわけがない。
     (日経新聞 生活 ファミリー 4ー16ー05)

私もすごく同感した。仕事の場でのコミュニケーションと家庭でのコミュニケーションは違う。それが本音のコミュニケーションであるという意味で。 生身であるからこそ、熱くもなる。時には加熱も。一番理解して欲しい相手に理解されない時の哀しさ、口惜しさに取り乱すこともある。

いつも理路整然、冷静とはいかない。論理的である事、冷静である事を前提にして、それ以外のものも受け付けないとしたら、家庭での本音のコミュニケーションは成立しない。

時には髪振り乱してにもなり得る。綺麗事では収まらない。綺麗事のコミュニケーションだけで通そうとしたら、家庭は芯の部分で空洞になって行く。褒められたことでも、美しいことでもないけど、つかみかからんばかりの勢いの口論だって有り得る。穏やかにすめば、それに越したことはないし、それを目指すべきであったとしても。

それを避けようとしたり、疎んじていると、本当のコミュニケーションは出来なくなる場合もある。生身のコミュニケーションを封じたら、家庭の中でも生身の人間でいられなくなる。

勿論、いかに親しい間でも、それを言ったらおしまいよ、という事はある。限度というものもある。生まれっぱなし、放し飼いで良い筈はない。些細な事に一々突っかかるのは感心しない。それでも、大事な所でのコミュニケーションは避けて通るべきでない。

生身のコミュニケーションだという事への覚悟は必要だ。それに向き合う覚悟が必要だ。そうでなければ、家族はただの仮面家族になって行く。家族は綺麗事で収めてはいけないものだ。それを忘れると、家族は芯で崩壊して行く。

家庭におけるコミュニケーションは、外でのそれとは決定的に異なる。その差を理解していない人間が多いのではないか。そういう, はちゃめちゃな、論理もくそもない、感情的に乱れに乱れたものでも、そこから理解が生まれて、絆が生まれるのが家族だ。そこで終らない強さを持って、初めて本物の家族だ。

生身のコミュニケーション抜きに、家族はほんものになれない。職場とはまた違う意味で、家族のコミュニケーションも真剣勝負だ。そこから逃げていたり、疎んじていては、家族は空洞化して行く。

by bs2005 | 2005-06-15 23:40 | 異論・曲論  

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