罪と罰ーヘンリーさんへの返信に代えて (その2)

「裁判と死刑ーヘンリーさんへの返信に代えて (その1)」で、出来るだけ早く(その2)を書きますと言ったのに、もう二週間以上経ってしまいました。すみません。

テーマが重く難しいのと、お忙しいヘンリーさんにはこんな駄文を読む暇はないだろうし、他に読んでいる方はおられないかも知れないし、段々、書かなくても良いかという気にまでなりかかってしまって、ますます遅くなってしまいました。(汗)

相変わらず確固とした立場は選び切れていず、迷ったままですが、これから死刑判決の絡む裁判への関与を求められる方もおられるかも知れません。今日の報道によると国民の63%が死刑判決への関与に反対しているそうですが、迷いは迷いのままの記事でも、そうしたことを考えるもう一つのきっかけになれば、と思って重い腰を上げることにしました。

前置きが長くなってしまいましたが、更生可能性という判断が基準になるのではないかという私の意見に関して、ヘンリーさんはこう書かれています。(その1)と重複しますが、再度引用させて頂きます。

私は正真正銘の極悪犯を間近に見たどころか、個室で面と向って治療をしたこともあるので知っていますが、この世には「更生能力ゼロ」の人間が想像以上にたくさんいます。更生させる、という観念自体が既になにかロマンチックな夢でしかないというのが私の見た現実です。そんな夢みたいな観念を基準に判決を下すことには大反対です。これって、つまり私は死刑制度反対ということになるのでしょうね。

(その1)で、そもそも裁判というものは人間が犯した罪を裁くという意味において、観念からも主観からも自由にはなりえない、客観的データにのみ基づくとしたら、判決はコンピューター任せに出来る筈で、そもそも裁くという行為の難しさはそういう具合に行かないところにあると述べましたので、ここでは更生可能性と言う時の私の考えていることを書きたいと思います。

私自身は幸い(?)、更生能力ゼロの人間に直接接したことはありません。ただ、そういう存在があることも、少なくないことも間接的知識の枠内ですが知っています。そういう存在が少なくないということに、疑問を挟む余地は無いと思います。

逆にだからこそ、更生可能性がある場合、それを考慮に入れない訳には行かないのではないかと思います。更生不可能な人間が少なくないとしたら、逆にそういう中で更生可能性を持つ人間を、大勢がそうだという理由で切り捨てることは出来ないのではないかと思うのです。

(その1)でもちらりと書きましたが、私が更生可能性という場合はあくまで人間としての更生可能性です。死刑にするかどうかが問題となるような事件で刑期を終え釈放、社会に復帰するというようなことは考えていません。一生、獄の中で過ごす終身刑のみが死刑の対極にあります。

また、再生「させる」という外からの観点も余り無いのです。人間としての更生というのは、その人の中に良心の目覚めが生まれてくる可能性があるかどうかという意味です。それがちらりとでも見えるか全然見えないかということです。本人の中にそもそも可能性が無い場合に、更生「させる」ということが外から可能なのかは非常に疑問に思います。

罰ということを考えた場合、死刑という形で葬り去ることが本当の意味で罰になるのか私は疑問なのです。犯行を犯した人間に少しでもその良心が芽生えることがあるならば、その良心の呵責の煉獄の中に被告を一生置くことの方が、罰として、また償いとしての意義があるような気がするのです。

その良心が芽生える可能性が無ければ、終身刑にしてもその罰としての意義は無いでしょう。ヘンリーさんの言われるような更生ゼロの被告の死刑は、私の場合は逆にやむを得ないような気がして、死刑反対という立場も取り切れていません。

ただ、私は犯罪という行為に人間の業の究極の姿を見る思いがして、犯罪心理学、犯罪ケースの本はかなり読んでいます。(家族に気味悪がられながら、、・笑)、そういう中で知識として得たものは、いわゆる極悪人と言われる人の育った過程です。

殆どがすさまじい虐待、あるいは徹底した無視、放置、ミルクも与えられない、抱かれることもない、おむつも替えられない、極端な場合はオーブンに投げ込まれるというような、愛情を全くかけられなかった人々であるそうです。

両親共、あるいは片親で、教育のレベルも低く、貧困で、子供を顧みる余裕も育て方も知らず、親自身がひどい虐待の犠牲者だった場合も少なくない、愛されたことが無いから、愛し方もそもそも知らない、愛そのものを知らないという場合が非常に多いのです。親がそもそも居ず、愛情の一切与えられない場所を渡り歩いたような人も居ます。

一方、裕福で社会的に高い地位に居る両親に育てられながら、自分勝手そのものの事件を引き起こす人も少なくありません。そういう場合は物は自由に与えられながら、両親の細やかな人間的愛は受けてきていない、、どちらも決定的に愛情にかけた生い立ちなのです。

人が人を裁くという問題に立ち返ると、完全な人間が居ない以上、完全な親も居る訳がありませんが、そこそこに一生懸命に、それなりの愛し方で子供を育てようとした親に育てられる機会に恵まれた人間が、全く愛の欠如した環境で育った人間に罰を与える資格があるのかという問題にもなってきます。

私は人間は環境に大きく影響される生き物だと思っているので、自分が同じ環境に生まれても、極悪人にならなかったとはとても思えません。また色々読んでいると普通の環境に生まれても、罪を犯すかどうかは紙一重の気もします。何度も犯罪を繰り返す場合は別としても。これから先、全く犯罪と無縁でいられるかも100%の自信はありません。人間というのは追い詰められたら何をするか分からない存在ですから。

そういう具合に考えて行くと、そもそも死刑にする資格は誰にも無いような気もしてきます。そこで考えるべきだろうと思う要素がもう一つ出て来ます。ヘンリーさんが主観的、あいまいとして否定されている「被害者、遺族の心情」の問題です。

ごく最近の例ですが、女性を殺し、発覚を恐れて遺体をトイレに流した事件があります。犯人は、法廷で消え入るような声で「こんなにひどい事件を犯したのだから死刑しか無い。死で償いたい。」と言っているそうです。

私が言ったような更生可能性ということで言えば、少なくとも良心はありそうな犯人ですが、私の心情では、この場合は被害者、遺族のことを考えると死刑にするより他ないのではという気がします。こういう犯罪を死刑にしないということは、遺族に死刑を言い渡すに近いことのように思えてしまうのです。

遺体をトイレに流すというような反社会的な事件は被害者側の心情だけでなく、社会規範を守るという要素も出てくると思いますが、、。

しかし、同時に犯人の望む通りに死刑にして、それで本当の罰になるのか、おのれのおぞましさに一生向き合わせるべきではないのかという考え方もあり得ます。

結局、考えれば考える程、答から遠くなる感じがします。ただ、裁判という制度を認める以上、他人=裁判官がそれをやっている内は良いけれど、自分が裁判員となったら、人に人は裁けないという論理を持ち出すことは許されないと思うのです。制度を認めるということは、人が人を裁くことを認めることに他ならないのですから。

そして、犯罪というものが客観的データだけで決められるような単純なものではない以上、また、客観的データそのものの信憑性が裁判員制度では保障し切れていない以上、(その1)で述べたように、裁判というものは、あいまいなものから逃げられない、主観と主観をぎりぎりまで突き合わせて、個々のケースを具体的に徹底的に論じて、可能な限りの客観性に辿り着くことを目指して行くより他ないものではないかと思います。結局、堂々巡りの返信ですみません。

今更になりますが、ヘンリーさんが結局私の場合は死刑制度反対になるのかもと書かれてましたね。更生可能性の無い極悪人を例に出されたので、むしろ死刑賛成の意見に思えたのですが、あいまいな基準で死刑かどうかを決めるのに反対だから死刑そのものにも反対ということでしょうか。そういう立場もあり得ますね。

私の場合は死刑を完全に否定し切れないからの迷いであるかも知れません。あいまいなものを基準にする位なら、いっそ死刑は完全に否定するという立場の方がすっきりするかもしれませんが、ヘンリーさんが実際に会われたような極悪人を生かし続けるというのも、私にはすんなり納得出来ないので迷いが止まりません。

途中までは同じ考えでも、正反対の結論が出かねない、それが裁くということの難しさ、死刑を語る時の難しさでもあるんでしょうね。こんなまとまりの無い返信がこんなに遅くなってすみませんでした。でも、ヘンリーさんのお蔭でずっと考え続けることが出来ました。有難うございます。
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by bs2005 | 2009-01-28 06:17 | 異論・曲論  

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