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裁判と死刑ーヘンリーさんへの返信に代えて (その1)

私のブログの設定の為、お読みになれない方もおられると思うので、ヘンリーさん私の記事に下さったコメントを先ずご紹介させて頂きます。



私も確固とした意見などという立派なものは持ち合わせていませんが、強く感じていることが幾つかあります。ひとつは、裁判員は「被害者の心情」といった主観は絶対に考慮してはならないということ。もうひとつは、「加害者の更生可能性」というものは非常に曖昧な観念で、裁判員などに科学的に判断できるわけがなく、すなわちこれも考慮に入れるのは間違いだということです。

私は正真正銘の極悪犯を間近に見たどころか、個室で面と向って治療をしたこともあるので知っていますが、この世には「更生能力ゼロ」の人間が想像以上にたくさんいます。更生させる、という観念自体が既になにかロマンチックな夢でしかないというのが私の見た現実です。そんな夢みたいな観念を基準に判決を下すことには大反対です。これって、つまり私は死刑制度反対ということになるのでしょうね。


ヘンリーさんはあんなに上質でスリリングなブログを、より実践的で有意義なお仕事に身を捧げる為に残念ながら閉じておしまいになりました。彼女のブログをまだご存知でない方の為にも、記事を読める形で残しておいて頂きたかったのですが、それも叶わず、彼女らしい潔さですっぱり閉じてしまわれましたので、クリックしても素晴らしい記事の数々が読めないのが何とも惜しまれます。

超多忙で心身ともにお疲れになる日々を送られていることと思います。こんな記事を読みに来る暇も既に無いのではないかと、、。宿題の提出がこんなに遅くなって申し訳ありませんでした。

未だにまとまってはいないのですが、そもそも人を裁くということや死刑という問題がそんなに簡単にまとまる訳もなく、また、時間を掛ければ掛けるほど、むしろ拡散して行く恐れも感じたので、甚だお粗末な内容ですが、ヘンリーさんが提起してくださった問題に関して、私なりの今の立場ーという程、確固としたものではなく、感想に近いものですが(汗)-を書いておこうと思います。

ヘンリーさんは、アメリカの問題をもっとも尖鋭な形で集約していると言ってもよい現場で、また南部という場所で、アメリカの、また人間の厳しい現実を目のあたりにし、そこで文字通り、身体を張って格闘し続けてこられ、今は文字通りアメリカの中心、ワシントンでその闘いを続けておられる方です。

その方が中途半端な人道主義っぽい言葉や曖昧な観念を嫌悪されるお気持ちも、科学的でない判断・主観に対して徹底的に否定的意識を持たれることも、私のお粗末な想像力の範囲でしかありませんが、少しは分かる気がしますし、同意する部分もあります。

ただ、もう一度根本的に考えて行かなければならないことは、そもそも、人を裁くということが、科学的客観的判断だけで成立し得るのかということです。逆に言うと、もしそれが出来るならば、裁判というものは不要と言っても良いかもしれません。

どういう犯罪を犯し、どういう経歴を持つか、それをコンピューターのデーターに打ち込み、そこから、それに相当する刑をコンピューターに算出してもらい、答を出してもらえば良いことになると思います。その証拠の信憑性、検察側の提示能力、弁護側の反証能力、提示能力、過去の実績、そんなものも全てデーターに取り込み、その答で裁定すれば、それで良いことになると思います。

ヘンリーさんが提起されていることは、突き詰めるとそういうことになってしまわないでしょうか。そもそも裁判制度そのものの否定になってしまうのではないでしょうか。

そもそも人を裁くということを神ならぬ人間が行うということには非常な無理があります。100%正しい人間はありえないし、100%正しい考えというのもあり得ない。100%客観的な事実というのもあり得ない。人間が犯した罪を100%科学的に検証することも不可能である。検察側が提示したことが100%正しいこともあり得ないし、逆に弁護側にも同じことが言える。

客観的データーだけに依拠してコンピューターで出した判決が、果たして罪に適った罰であるかどうかもまた疑問だと思います。客観的データーに主観が入り込む隙が無いとは言えませんし、特に人間が絡むものである限り、その可能性は高く、逆にそういうものが客観的絶対的真理であるかのように扱われてしまう時の怖さというのは、かえって怖いものがあるように思います。

そもそも裁判という過程は、そういう主観と主観がぶつかりあい、せめぎあう中で、何が一番客観的に正しい真理に近いのかという所に、可能な限り、究極のところまで突き詰めて行く、何が一番科学的に正しいことに近いのかということを探り合って行く過程だと思います。

科学的でない、曖昧であるということで切り捨てることが出来ない、裁判というものは不可避的にそういう過程なのではないかと思うのです。人間を扱う以上、科学で割り切れるわけもなく、主観から自由になり得るものでもないし、むしろそういうものにきちんと向き合わなければならないものと思うのです。だからこそ、徹底的な議論が問われる場所であり、過程なのではないでしょうか。

ちっとも的を得ていなく、まとまらないのに、ただいたずらに長くなっていますので、死刑と更生可能性ということに関する私の考えについては(その2)で述べさせて頂きます。

一言だけ申し上げておくと、私の更生可能性という考えには、死刑とからむ範囲では社会復帰、実社会における更生という観念は入っていません。死刑が検討されるような犯罪を犯した人に実社会でもう一度チャンスを上げようという考えは入っていないのです。

私のブログで度々ご紹介してきた曽野綾子さんがしばしば語られている「真の復讐は何か」という考えに沿ったものです。ロマンや夢からは大分離れた復讐の方法論の上にあるものと思っています。従って、そもそも根源的に復讐を否定される方からは、逆にお叱りを受けるものかもしれません。


出来るだけ早く続編も書けるように頑張ります。らふぃさんへの宿題も、結局大したものにまとまりそうもないので、感想程度のものですが、近々アップにこぎつけたいと思っています。(汗)


大分遅れましたが、続きは→「罪と罰ーヘンリーさんへの返信に代えて (その2)」

by bs2005 | 2009-01-11 05:36 | 異論・曲論  

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