裁判員制度を導入する前に必要なもう一つのこと

裁判員制度は、主体的にものを考えない傾向の強い日本にとって、究極的には国民の発想を変えて行く良い制度になりうる可能性を持ったものです。

でも、私は今、こんな形で導入することに反対してきました。そもそも日本ではきちんとディベートをする教育を受けてきていないのです。インドなどでは小学校からやっているそうなのに。そんな中できちんとした議論が出来るでしょうか。特に空気を読むことが美徳とされる社会で、、。


NHKで模擬裁判を見ました。そこで一般の人がしていた議論はなかなか主体的なものでした。法律の専門家の提示に対しても鵜呑みにすることなく、、。でも、彼らは自分から参加したそもそも主体的な意識を持った人々です。赤紙のように無理矢理呼びつけられた人々が実際にあんな風に議論が出来るかどうか疑問です。

何よりも問題だと思ったのは、そういう主体的な人々の間でさえ、死刑ということに関する理解があまり突き詰められていないように見えたことです。死刑制度反対論者へのきちんとした突き詰めた反論を持っているようには見えませんでした。

参加者は模擬裁判とは思えない真摯さで、真剣に検討され、実際には誰も死刑に処せられないのに、重く受け止めておられました。そのことは評価するべきだと思いますが。。。

日本人は今まであまり死刑制度というものを突き詰めて考えてこなかったのではないかと思うのです。

私自身がそうです。反対の意見を聞けばそうかと思うし、賛成の意見を聞けばそうかもと思う。廃止するのも、賛成するのも、どちらも極端に思える。そんなところでお茶を濁してきました。何故死刑があるかということも、被害者の心情、社会の秩序維持という観念的なレベルで納得していました。

今、世界で日本は死刑制度を続行している数少ない国だそうで、抗議も起きているとか。何も世界がそう言っているから、そのまま言うことを聞かなくてはとは思いません。でも、もう少し何故死刑にしなければならないのかということ、反対する人々の意見にもしっかり耳を傾けた上で、思考を突き詰めた土壌があるべきではないでしょうか。

残虐非道な連続殺人を犯すような人は、子供の頃、目をおおうような虐待、放置をされ、愛情の何たるかも知らずに育った人であることが多いそうです。だからと言って被害者の家族の心情を無視してよいとも思えません。社会の秩序も考えなくてはいけないでしょう。

私は確固とした信念を持てているわけではありませんが、被害者の更生可能性があるかどうかが、死刑かどうかの重要な決定用件になるような気がします。更生可能ということは同時に罪の重さに目覚めて、そのことを自分の十字架として針のむしろの上で生きていく可能性があることと思うのです。更生可能性が無く、従って罪の意識もなく、のうのうと生き延びるとしたら、被害者の心情から言うと忍びない気がするのです。

NHKの模擬裁判では一般人でたった二人以外、法律関係者の中では全員が、それを理由にせずに更生可能性は大きそうな被告に、死刑判決を下したことにショックを受けました。特にこれだけ日本の死刑制度が海外で非難されている時に、、。

暴力団に追いつめられていたとか極限の心理状態だったろうという情状酌量の余地もあると認めながら、犯行後、自首をしなかったことも大きい要素になりましたが、自首をしないということは果たして死刑に値するほどのことかという疑問も残りました。

同時にやはり法律専門の人々の意見に大きく引っ張られている傾向も感じました。一般人を仲間に引き入れることで、自分達への風当たりを弱くする為に裁判員制度は導入されたという見方も、あながち外れていないかもと思いました。

死刑というのものをどう考えるのか、もっと国民的に広い議論が為されるべきで、一般人が死刑かどうかを決めるような裁判に参加するのは、それが充分為されて、死刑というものに対する色々な観点があることがしっかり共有されて初めて、各人の意見が意味を持ってくると思います。

現在の裁判員制度では、死刑反対の人は裁判員から却下されるとか。(それを口実に逃げることも可能ですね・笑)。そもそも死刑はあって当然、死刑制度反対の論拠はよく知らないという考え方の人ばかりで決められる死刑、、、改めて、現在の早急な導入に強い不安を抱きました。

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by bs2005 | 2008-12-19 03:46 | 異論・曲論  

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