「小さな」癒しと「大きな」癒し
2008年 10月 02日
「小さな」癒しが広がって行く中で、それがむしろ「大きな」癒し、すなわち社会の根底からの変革を阻害しているのではないか
彼が「小さな」癒しというのは、個人の心の癒しで、「大きな」癒しというのは、真にひとりひとりが癒されるような社会を築き上げて社会全体を癒していこうとするもの。彼は「小さな」癒しでは翌日になれば同じことの繰り返し、社会は何も変わらないことの問題を挙げている。
更に、ここ十数年、日本で広がっている何から何まで心の問題とする考え方を心理主義と名づけ、自分の心さえ何とかすれば、幸せに生きていけるという感覚を心理主義のまやかしと言っている。そのまやかしが、「小さな」癒しを蔓延させ、当たり前の怒りの表現手法を身につけさせていないという。
全世代が「自分は使い捨て」という意識の中で生きている。そうして自身の尊厳を深く傷つけられながら、誰もが「空気を読め」といわれ、自閉した個の中に怒りを閉じ込めている。それは健全な状態ではない。
ダライ・ラマは上田さんとの5時間にわたる対話の中で、「慈悲から生ずる深い怒りが大切だ」と語っていたという。上田氏はこの記事の最後をこう結んでいる。
愛と思いやりがあればこそ、不正や差別への怒りも生ずる。短絡的にキレるのではなく、深い怒りを持て。怒りは「癒し」の源泉なのだ。
私自身も「小さな」癒しは決して嫌いじゃないし、否定するつもりは全然無いけれど、全てを自分の気の持ちようと説くばかりで、社会の問題を語ると自分で自分を幸福にできない人のような決めつけ方をする人を見る度に、違和感を抱いてきた。
でも、キレやすい私が言っても説得力が無いので(汗)、その違和感を上手に表現できなかった。最近の小泉今日子さんの発言といい、この記事といい、「どやし系」の存在許可証をもらったようでちょっと嬉しく、言葉にできなかった違和感を代わりに言ってもらった感じでスッキリした。
上田さんはご自分の近刊 『かけがえのない人間』に触れてこうも言われている。
自分のかけがえのなさに気づけないという受身と依存の自己意識こそが、現代の空虚と暴力を生み出す根源だ。私たちひとりひとりが未来を創造する主体なのだという自信を持ち、愛されるのを待つのではなく、自ら愛すること。
by bs2005 | 2008-10-02 04:29 | 忙中閑の果実