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裁判制度と裁判員制度

私は今までに何度か、裁判員制度への疑義を表明しているけれど、私自身、未整理な点があったと思うので、改めてこの機会に、出来るだけ簡略に(?)整理しておきたい。

1.「人は人を裁けるのか」という問題と、裁判員制度の問題は厳密に区別する必要がある。

「人は人を裁けるか」という根源的問いは大事な問いだし、「裁く」という行為にいつもそういう自省が必要とされるのは、その通りである。

けれど、私達の社会は裁判というものを認めている社会である。自分が直接手を汚していなくても、そういう職業につく人に任せることによって、間接的に既に私達は、裁判員制度が出来る前から常に人を裁いている。

「人を裁く」ということが許されないと思うのなら、そもそも裁判そのもの、裁判官そのものの存在も否定しなければならない。裁判員制度ではなく、裁判制度の否定として論じられるべきである。

裁判員制度の問題は、人をどう裁くかという実務レベルの問題として区別して論じないと、曖昧になって足を掬われ、元も子も無くなってしまう事になりはしないか?人を裁くことの是非は、裁判員制度以前から既に根源的に問われてきたのだから。

2.民間の人間が裁判に関わること、それ自体に反対している立場ではない。

アメリカの陪審員制度にも色々の問題があるけれど、廃止するべきだとは思っていない。アメリカの陪審員制度は、一般の人間が主体的に社会のことに関わる為の教育として捉えられているという。問題は沢山あるけれど、その面では確かに意義を持つと思う。

専門家に任せておけば自分は裁いていないという錯覚を持たない為にも、又、自分の身に降りかかってくるまでは、何事も他人事と思う傾向の強い日本人の教育手段としても、将来的には導入した方が良い制度かもしれない。少なくとも10年は早すぎるとは思うが、、。

3.私が現在提示されている裁判員制度に反対している理由

(1)今回の裁判員制度があまりに乱暴な導入の仕方だからである。政府は導入を決めてからPR、模擬裁判などに励んでいるようだけど、先ず導入するか否かについての公開討論会をあちこちで数年かけてやる必要がある。こんなに大事なことをトップダウンで勝手に決めては困るのだ。この討論会の過程が、裁判員になっても、きちんと論議できる為のディベート教育という機能も持つと思う。

(2)きちんと論議を出来る教育が今までされてきていない。出来れば小学校から始めて、中学校では「ディベート」のクラスを作るべきである。それを子供に教えられる専門家を育てなければならない。それには相当の時間が必要だ。アメリカ人は子供の頃からそういう教育を受けて裁判に参加している。この違いは大きい。

(3)誤審の激増。誤認逮捕によって裁判にかけられた被告(人)が、未熟な論議の果てに、犯してもいないことで有罪にされる可能性がまず挙げられるが、逆に有罪なのに、感情的な判断で無罪にされてしまう可能性も激増する。日本の情緒的風土から言うと、どちらの場合も激増するだろう。

善意の目撃者の目撃がどんなに当てにならないかは、心理学、犯罪学の実験でも、そして現実にも沢山証明されている。今までプロがやっても誤審は避けられなかったのに、充分な準備もない所でいきなりやれば、日本の司法そのものの崩壊に繋がりかねない。

この点に於いて、佐平次さんの、裁判員制度を巡る論議は、自分が裁く側の立場からしか考えていないのではないか、自分が裁かれる側の立場からも同時に考えるべきではないのかというご指摘は、まことに的を射るものだと思う。

(4)量刑まで裁判員が決定するというのは、アメリカの陪審員制度でもやっていない暴挙だから。

アメリカでは、有罪、無罪は陪審員が決めるけれど、最終的な量刑は裁判官が決める。そこで、民間が審判することの危うさを少しでも抑制している面もある。日本の場合は、一体どうして、こんなに乱暴で性急な導入でここまで極端に行ってしまうのか、実務レベルでの検討があまりに甘い制度のように見える。このままでは、とんでもないことになるのではないかと私は心配でならない。


関連過去記事:
  ディベート精神不在の国で
  裁判員制度

by bs2005 | 2008-07-03 03:32 | 異論・曲論  

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