ディベート精神不在の国で

何度か書いていることだけれど、日本ではディベートを誤解している人が多い。
討論という言葉の「討つ」からだろうか?相手を言い負かすことと勘違いしている傾向が見られる。



ディベートは、ワインを試飲するときの感じに似ている。ワインを口の中に含んで舌の上を転がし冷静に虚心に味わう、ああいう感じで自分と違う意見を、一度自分の中に取り込んでよく吟味しなければならない。

日本人の会議や討論会などを見ていると、大体相手の言うことをきちんと聞いてない。ましてや検討などしていない。反論を出されるとむっとしている。どう言い負かすかということしか考えていないように見える。意見を言う人間は自分の意見に皆が感服するのを求めている。「お説ごもっとも」と言われたくて仕方ないから、感服が得られないと傷つく。相手の言うことはもう聞いていない。

テレビなどで見ていると、教育レベルや社会的地位とは関係ないようだ。むしろ高い方が、相手の言うことを鼻にもかけなかったり、反論されると感情的になったりしている。「誰に向かってものを言ってるんだ!」という態度すら見られる。

ディベートとは自分と違う意見(それが如何に未熟なものに思えても)に謙虚に耳を傾け、その観点からもう一度自分の意見を見直すことである。言ってみれば聞くことが最も大事である。そしてそこから自分の頭で考える。謙虚に考える。立場は変わらなくても、ディベートの前と後では参加者の居る地平は進歩していなければならない。同じレベルに居るならばディベートの意味は無いに等しい。

ディベートでの真の勝利者は(あえて勝利者を決めるとしたら)、相手を打ち負かした人ではなく、論議の前の自分の地点から一番遠くまで行けた人である。だから相手の論に心から納得して、自分の意見を撤回できた人の方が勝利者である場合だってあり得る。少数意見にも謙虚に耳を傾け、真剣に検討でき、沢山取り入れられた人が勝利者の場合もある。

こういうディベートの精神が定着していない、しかも、空気を読むことが美徳とされている今の日本にそのまま裁判員制度を持ち込むのは危険が大きすぎる。

他の裁判員が皆、有罪だと決め付けていて、とっととお役目を終わらせて家に帰ろうという圧倒的空気の中で、それに最後まで逆らって自論を展開できる人がどれだけ居るだろうか。少数意見に真剣に耳を傾ける人間がどれだけ居るだろうか。その場で指導力を何らかの力で持ってしまった人と違う意見を、本当に納得するまで引っ込めずにいられる人がどれだけ居るだろうか。

裁判員の中の素敵な異性が落ち着いたトーンの美声で何かを言ったら、思考能力が停止してしまって、「あなたについて行きます!」気分になることだって無いとは言えない。かく言う私だって亭主には猛反駁できても、素敵な異性にどれだけ反論できるか?(汗)裁判員である前に女になってしまうかも知れない。(爆)

教育レベルや社会的地位・経験の差が大きかったら、そういうダイナミズムはもっと顕著になるだろう。フリーターや専業主婦の意見など鼻にもかけない会社重役、大学教授や国会議員(国会議員は召還されないのかもしれないが、あくまで例として)なんていうのが十分あり得る。逆に、「難しいことは分らないわ~」と行って逃げてしまう女性も多い。女性の場合は論じ合うエネルギーは全て夫婦喧嘩と子供を叱るのに取っておいているのかもしれないが、、(笑)。

裁判員制度の導入の前に、真の正しい精神に基づいたディベートの訓練教育が必要だ。遅くても中学から始めるべきだろう。しかし、その指導者を作るために何年もかかる。今から始めて、日本の普通の人がきちんとした討論を冷静に、他の人の意見に惑わされず、その場の空気に支配されずに出来るようになるまで一体何年掛かるだろうか。

そういう準備も全く無い所で、裁判員制度を今の日本に導入するのは、よちよち歩きの子供にスキージャンプとかトライアスロンに挑戦させるような、無謀きわまりないことだと思う。不祥事警官に誤認逮捕され、まったく未熟な論議しか出来ない裁判員達のその場の空気で有罪宣告をされたら、たまったものではない。今までプロがやってきたって誤審はいくらもある。これからどうなってしまうのか。裁判員制度の導入はあまりに早急だと敢えて重ねて言いたい。

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by bs2005 | 2007-10-26 03:46 | 異論・曲論  

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