私の科学コミュニケーション ー ある国防論に対して

今日取り上げたいのは、私が大いに疑問を感じる田久保忠衛(たくぼ ただえ)杏林大学客員教授 「小池防衛相は国防の根幹に取り組め」の思想です。青字はその中からの引用です。(忙しい方は青字飛ばして読んでも内容掴めると思います。・笑)

こういう考えが大学教授ということで重みを持って疑いも持たれずに、反論もされずに浸透してしまうことを私は恐れます。こういう人たちが活発に発言しているのに、長崎、広島、沖縄などでの戦争体験者ばかりに任せ切りで、ちっともきちんとした反論をしない学者、言論人、政治家は怠慢だと思います。もっと力仕事に励んで欲しいです。

私が何を言っても、どれだけの説得力を持てるか自信はありませんが、どんなに稚拙な形でも、ものを言っていくのが市井の人間としての私なりの科学コミュニケーションのつもりです。例によって長文・駄文・乱文の三位一体ですが、、、(汗)。




久間章生前防衛相の一連の失言、揚げ足とりに終始してきた野党、両者に冷や水を浴びせるどころか、対立を煽(あお)り立てているマスメディアには国防を神聖なものと考える意識も能力も欠けていると思う。

まず第一に「国防を神聖なものと考える意識、あるいは能力」 とは具体的にどういう内容のものか?国防は何故、どう神聖なのか?

国ではなく郷土を守る、家族を守る、そういう意識は誰にでも多かれ少なかれあるだろう。けれど、そういうものではなく「国」 を守るということが内容抜きにただ神聖なものとして言われるのは、どうだろうか。正にその曖昧な精神主義で国防を考えることを強制されたからこそ、あの大東亜戦争の悲劇があるのではないだろうか。特攻隊の悲劇があるのではないだろうか。

この人は一兵卒、あるいは一庶民としての戦争の悲惨さをどこまで理解しているのだろうか。自分はぬくぬくとした地点にいながら、「お国の為に」 戦うことを美化して、若い命を散らせた戦中の指導者たちとどう違う地点で言っているのだろうか?守るべきなのは、指導者達の作り上げた勝手な「お国」や「神聖」 という観念ではなく、普通の人々の地に足のついた営みではないのか?

サッチャー英首相は自伝の中で「われわれが一万三千キロもかなたの南大西洋で戦っていたのは(略)、国としての名誉、そして全世界にとっての基本的に重要な原則、すなわち何より国際法が力の行使に勝たなくてはならないという原則を守ろうとしていたのだ」と書いている。

国の名誉というのは、戦う形でしか表現できないものだろうか。戦わないという選択の中にもあるのではないか。国際法が力の行使に勝たなくてはならないという原則が、ただちにそれをそれを上回る力の行使を意味するだろうか?それは正しい選択だろうか?他に選択はないのだろうか。力の行使に対して力の行使というあり方が長期的にあるいは本質的に果たして有効と言えるだろうか?

小手先の修正はなされてきたとはいえ、防衛省内局の自衛隊に対するコントロールの基本は変わっていない。「文民統制」の本当の意味を詰めようともせず、戦前の反動というべき現「文官(内局)統制」を正当化したままの戦後体制である。その象徴の防衛参事官体制に各幕僚長を加えるなどの改革を唱えたのは石破茂長官だったが、以後の長官は結局内局の反対を押し切るだけの見識と政治家としての実行力に欠けていた。戦後体制の脱皮を唱える安倍首相の意向に最も沿う防衛問題はここにあると考えるが、小池防衛相は少しでも手をつける意向があるかどうか。

「文民統制の本当の意味」とは具体的に何か?防衛参事官体制に各幕僚長を加えた形は、よもや文民統制の形とは言えないのではないだろうか?統制とは協力体制でも共闘体制でもない。片方がもう一方を支配コントロールするのが統制という言葉の意味ではないのか?

 日本の自衛隊に普通の民主主義国の国軍になってほしいとの米国の要求に対し、まことに遅まきながらNSC(国家安全保障会議)設置へ向けて動き出し、限定的ではあるが、集団的自衛権行使の方向性が見えてきた。しかしそのテンポを国際情勢の変化が待っていてくれるかどうか、

「普通の民主主義の国軍」 とはいかなるものか?何が普通で何が普通でないのか?それを決めるのは誰か?アメリカが決めることか?米国が要求したからと言って、それに唯々諾々と従うとしたら、どこに独立国家としての見識があるのか?自立した国家としての選択がなされないような国に、国の名誉がありうるのか?国際情勢は常に変化するものである。問題はその選択が正しいものかどうかではないのか?性急に誤った選択をして突き進んだ誤りを先の大戦から学ぶべきではないのか?待ってくれるかどうか、などと浮き足立って決めることでは絶対にない筈だ。

「普通」 は、普遍的価値を持つものと同義ではない。先の大戦では、まだ二十歳にもならない若者が「お国のために」 特攻機に乗ることすら普通だった。もうそんな「普通」 を許してはならないのではないか?「普通」 の内容そのものが問われるべきではないのか?

今、世界で問われているのは正に、西欧型民主主義や価値観の押し付けによる国際社会への関わり方そのものではないだろうか?その押し付けがあちこちで悲劇を生み、反発を生んで、極端にはテロの土壌となってしまっているのではないか?日本が求めるべき道はアジアの一国として、そのアイデンティティに立った民主主義、国際関係を作り上げて行くことではないのか?

私たちは戦う勇気ではなく、戦わない勇気を選ぶべきではないのか?
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by bs2005 | 2007-08-08 01:14 | TON同盟  

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