自分の問題・他人の問題

社会の問題を具体的に、現実的に考える。現実の問題として考える。自分の問題として考える。そういう発想が日本には根本的に欠けていないだろうか。人任せやお上任せにせずに、自分の現実の問題として具体的に考える発想に、上から下まで、右から左まで欠けていないだろうか。




社会の問題は必ず土壌の中に問題の根がある。自分がその問題の被害にあっているか否かに関係なく、土壌の問題は自分の足元の問題であるから、自分の問題である。直接の当事者だけの問題、対岸の火事で済まない。表面だけに目を奪われて、根に目が向く感性やアンテナがないと、それが見えずに他人の問題と思ってしまう。自他を分けてしまう。

社会の問題と個人の心の問題を同じ次元で考えてもそうなってしまう。自分の心の問題の根は自分にあるが、社会の問題はそれだけでは語れない。個人なくして社会はないけれど、同一ではない。混同は社会的問題へのスタンスを誤らせ、無力な地点に追い込んでしまう。結果的に土壌を腐らせるのを許し、主観的にはどうあれ、それを推進してしまいかねない。

普通は直接に苦しみを抱えている人は、それだけで一杯一杯になってしまう。問題に直接被害を受けていない人間こそが、自分の問題として共に問題と闘う姿勢が必要だし、それが大げさに言えば人類の共生に繋がって行くのだと思う。

直接に苦しんでいる人間だけが闘うとしたら、根はどんどん広がって土壌全体を冒してしまう。土壌に向き合う態度を持たずに、砂上楼閣の上や泥舟の中に安穏としていて築ける真の幸せも平和もない。根を更に腐らせる方向のものに対しては、時には毅然と闘う姿勢を見せることも必要になるし、綺麗ごとだけでは済まない場合もある。個人の心の問題と同じ姿勢が常に通用するとは限らない覚悟を必要とする。
[PR]

by bs2005 | 2007-07-27 04:31 | 異論・曲論  

<< 恐怖の脳波テスト もう一つの素朴な疑問 >>