人気ブログランキング | 話題のタグを見る

こういう政治を生むもの

柳沢発言を問題にして審議拒否、国会もそれにかかずらわる展開になっている。発言は勿論感心できないものだけど、例として挙げたもので、普通の人だって、非常にまずい例の挙げ方をしてしまうこともある。そのつもりじゃなくても。



一番大事なことは既に謝罪している、ということだ。発言した直後に自分で気付いて、更にその後も。それが本気かどうかまで問題にするのは思想の自由の領域にまで入って来てしまう。誰が見ても問題発言、本人も認めるようなそれを、正義の名の下に居丈高になっている野党の態度は大人げ無さ過ぎる。

謝罪しても許さないというのはどういうことか?「許す」という言葉が辞書にないのか?日本の文化に「許し」はない、過ちを犯したらそれで終わり、セカンド・チャンスは無いと子供達に教えたいのか?

アメリカだったら、どんなひどい発言でも、謝罪すれば終わりである。謝罪しない場合はかなり長引くけれど、謝罪すれば終わりである。そういう発言が何度も続けば、そして余りにそれが問題の場合はまた別だけれど、たった一度の発言、しかも謝罪していることまで、こんなに深追いする野党の姿勢はあまりに大人げない。

発言を問題にするなら、アメリカが交戦状態になったら日本も軍を出して応援するべきだ、などと言っている発言を放置していることの方が問題だ。大臣の首のすげかえに没頭したり、既に謝罪されている発言を深追いして、政策論議を初め、やるべきことを放棄して平気でいるこの感覚は度し難い。

アメリカの政治家が、失言者を謝罪したら放免するのは、大人であるからということと同時に、それだけ有権者を信じているからだと思う。その謝罪が本気であるかどうかを見抜く力が有権者にあることを信じているし、見抜いたら次の選挙でどういう結果を出すかを信じ、その審判に委ねる謙虚さがあるからだと思う。

野党の態度は、主役は有権者だという意識を忘れた思いあがった態度に見える。しかし同時に主役としての責任を有権者がどれだけ果たしてきたかということも問われているのだと思う。野党のこういうあり方がまかり通ってしまっているのは暗澹とした気分にさせられる。

by bs2005 | 2007-02-04 02:33 | 異論・曲論  

<< 謝罪広告 どちらが人間的? >>