人類の共生を求めてー企業への私案

ただのオバさんに、こんなことを語る資格も能力も無いのだろうけど、知らぬが仏というか、無知にはまた無知の力がある。現実を知らないから想像できることもある。現実を知りすぎた疲れた頭脳からは出てこないバカげた夢も、時には語る意味もあるかもしれないので語ってみたい。



崖っぷちにある企業にそんな余裕はないだろうけど、多少とも余裕のある会社は、採算を度外視した、今現在利益に直接貢献しないけれど、人類或いは地域に将来的に貢献するだろうプロジェクトを持つようにしたらどうだろうか。

国はそれを強制は出来ないだろうけど、そういう企業に税制で優遇措置を与えることによって奨励するべきだと思う。利益追求だけを目指していけば日本はどんどん先細りになる。こういうことにこそ、営利団体でない国は可能な限り、知恵を絞って力を貸すべきだ。

また、こういうプロジェクトに賛同する個人から寄付を募り、寄付をした人にも優遇税制措置を図る。漠然とした寄付ではなく、こういう具体的なプロジェクトの方が寄付する方も参加意識を持てる。プロジェクトの足長おじさんという所か。

日本の企業の社会貢献はお金のばらまきに終わっているという批判をよく聞く。教育や灌漑等の工事、食料生産、医療その他にお金だけでなく、プロジェクトを組む形で具体的に参加する。将来のその企業の経営の柱になるようなノウハウを摑むことを目指しつつ。

実際にそれを担当するのは少人数で構わない。大々的でなくて良い。企業の体力に合わせたものでよい。それに専従し、目先の利害から完全に切り離して、そのプロジェクトに本気で当たらせる。公的研究機関はそれへの協力を惜しまない。21世紀の産学協同を目指す。

プロジェクトの種類は、その会社の得意な分野あるいは関連分野から選ぶ。鳥インフルエンザの撲滅でも、飢えに苦しむ人々への食料開発でも、砂漠化の阻止でも、新エネルギー開発でも、或いはその地域の抱えている問題の解決でも、何でもよい。将来、その会社の経営に役立つものの中から選んで構わない。

そのプロジェクトの報告をまめに受けることで、自分達の営利活動にもその夢を支える意義があると感じられるだろう。そういう形で社員全体が誇りに思えるようにその目的を共有するべきだ。目先に捉われていない活動であるからこそ、逆に目先の仕事にも大きい示唆を与えるかもしれない。

自分の会社が地域あるいは人類に貢献するものもやっているのだという誇りは、その会社の一員である自分への誇りにも繋がるし、また倫理観の育成にもなると思う。見苦しいことはあまり出来なくなるのではないだろうか。会社のイメージ・アップにもなるだろうし、志の高い良い人材を獲得しやすくなるという効果もあるかもしれない。

そして大事なことは、そのプロジェクトの人間は、その開発に専念努力すると同時に、その段階での失敗や経過を、語れる範囲でどんどん地元或いは関連のある地域の小学校・中学校などで課外授業として語って行き、そういう夢を次世代にも共有してもらうことだと思う。寄付や税制優遇を受けた企業はそういう形での報告義務を負わせる。

これは三つの意味があると思う。一つは子供には大人には出来ない発想が出来る。そういう発想の中から、違うアプローチのフィードバックが得られるかもしれない。子供にとっても、出来上がったものを見るのではなく、その過程の苦労、思いを知ることは、自分自身の挫折体験も、もっと余裕を持った目で見られるようになるかもしれない。

二つ目は地域と企業をより強く結びつける。教師以外の大人が学校の現場に入って行くことは、そういう閉じられた空間に風穴を開ける効果と同時に、風通しの良さによって苛めなどの芽を摘みとる効果もあるかもしれない。

三つ目は、今の子供社会の荒廃は、子供達に大きい夢が与えられていないことも一因だと思う。私の子供の頃に見たような宇宙に行く夢とか、壮大な夢は既に大方実現されてしまっている。探検ばかりでなく、色々な科学的発明もそうだ。そういう子供達に新しい夢を与えられる。

壮大な夢を持っている子がケチな苛めに走るだろうか。そういう夢を持った子が苛めにあったとして、肉体的な暴力は別としても、言葉の暴力やシカトで、果たして死を選ぶところまで追い詰められるだろうか。大人が子供達に壮大な夢を与えてきていない、逆に子供の夢をつぶすような醜態ばかり演じている、そういう夢の無さが子供を死に走らせているような気がする。

人類の夢を語ること、それに現実的に取り組んでいる大人が居る。それを支えている企業がある。人類や地域の将来に大人は関心を持っている。大人だって捨てたもんじゃない。そういうことを具体的に知ることが、それを引き継ぐ世代に夢を与えていくのではないだろうか。

不二家の問題が話題になっているが、あれも利益追求だけの体質から生み出された問題だと思う。そういう意味で不二家は多くの企業が抱えている問題を凝縮し、最も情けない形で露呈させてしまったのだと思う。

不二家のような食に携わる企業は地球上の飢えに苦しむ人々をどう救うか、そういうプロジェクトを持つべきだったのではないだろうか。そうしたら、過剰なストックをあんな形で処理すること以外の道も見えていたかもしれない。

消費期限の切れる前に有効活用できたかもしれない。賞味期限の長い災害時の食品を考案する形で、飢えに苦しむ地域に貢献できたかもしれない。ワーキングプアの満足に栄養を摂っていない人達にも力になれたかもしれない。

雪印や不二家の崩壊の例を見ても、利益追求を超えた企業の形を求めて行くことが、結局、企業の生き残る道でもあるように思う。

初めに断ったように、これはオバサンのたわ言にしか過ぎないかもしれないけれど、出来ることを出来る範囲で考えて行くひとつのアプローチとして敢えて提示したい。三人寄れば文殊の知恵、そういう知恵を皆でああでもない、こうでもないと出し合って行くことには意義があるように思う。ちりも積もれば山となる。
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by bs2005 | 2007-02-02 01:42 | TON同盟  

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