証明義務

日本の裁判制度も基本は同じなのだろうと思うけれど、アメリカの裁判でよく聞くのは、被告には自分が無罪であると証明する義務がなく、検察側の方に、被告が有罪であるということを証明する義務があるということだ。



以前、目撃者の目撃がいかに不正確かという実験をテレビでやって見せていた。若いか年取っているか、男か女か、黒人か白人か、髪の毛が金髪か茶色か、背が高いのか低いのかというような基本的なことまで間違っていることが珍しくないのに驚いた。目撃証言だけの起訴の怖ろしさを思い知らされた。

アリバイだって、自分の数日前の行動を正確に覚えていない私には、それを証明できる自信もない。冤罪を起こさないためにも、被告の方に証明義務がないのは全く以って正しいと思う。

それと同様に、普通の人々が国の指導者のすることに理論的に異議を申し立てられなくても、その正当性を証明できなくても、普通の人々にその義務はないのだと思う。

その方針なり政策が正しいものであることを論理立てて、普通の人々を完璧に納得させる証明義務は指導者の方にある。

自分に理論がなくてもひるまずに、おかしいことはおかしい、納得できないことは納得できない、とはっきり言い続けるべきだし、物分りよくなる必要も無い。心の底から納得できるまでノーと言い続け、食いつくべきなのだと思う。

理論と知識を振り回す指導者の方が間違っていた例は、歴史の中に幾つでも見つけられる。生活者の直観を信じるべきなのだと思う。
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by bs2005 | 2007-01-17 09:08 | TON同盟  

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