党議拘束が存在してしまう怖さ

今のアメリカで党の拘束の下で票決された法案は、私の知る限り無い。多分、党議拘束などというものは無いのだろう。共和党が持ち出した法案に、共和党の議員が反対に回ることもあり、逆もそうだ。国を左右するような大きい政策決定でも例外ではない。珍しいことでは全くない。



逆に投票結果がそれぞれの党の数とほぼ同じになったような時は、party lineに沿った結果だったと、党の政策に盲目的に従った党派的な結果であったかのような批判的なコメントを聞く。

その法律が可決されるかどうかは、どこまでその党の中から相手側に投票するかにかかってくるから、そういう票読みも盛んだ。自分の党に反対の票を投じる議員は、自分がどういう信念からそうするのかという論理を堂々と発表する。

誰がどう投票したかは公的記録に残る。次の選挙で、彼はこれに賛成しておきながら今、こんな都合の良いことを言っている、などとやられる。投票に参加しなければそれも記録に残って、投票をこんなにさぼったなどとやっつけられる。一票一票に対しての責任が重い。

一人一人が自分の票に対して自立した判断と責任を求められている。選ばれた議員はそれぞれ個人として自立した存在であるのだから、当たり前のことだ。

党のトップがイラク戦争を言っても、共和党党員だからと賛成する義務はない。日本ではこれから、どんどんきな臭い法案や改正が行われそうな情勢になっている今、党議拘束をそのまま当然のものと思って良いのか非常に疑問である。

しかし、党議拘束を完全に外して、自由なものにしたとき、果たして日本の議員は自分の自立した判断で票を投じるだろうか?恐らく派閥の指示に従うか、地元の支持者の指示に従うのだろう。日本の政治家の自立のレベルの低さには暗澹としてしまう。

アジア全体、世界全体の未来を視野に入れている政治家がどれだけ居るのだろう。下手すると日本全体の未来さえ考えていない。与党のみならず野党もそうだ。党議拘束がまかりとおってしまう日本、それ無しではやっていけない日本。

日本はどうなってしまうのか心配でたまらない。政治家、知識人、マスコミにあまり期待の持てない今、私は普通の人々が自分たちの足元から上げる自分の頭と感性にきちんと向き合って出てきた声に、最後の期待を繋いでしまう。今一番自立して自分の頭で考えているのは普通の人かもしれない。
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by bs2005 | 2006-12-08 01:12 | TON同盟  

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