日本の核武装論議を受けて立つ必要性

8月10日の記事で、反戦、非核は感情論だけをベースにしていては駄目だと書いた。しっかりとした論理に支えられるべきだと。

その時、感情だけに基づいていたら、いざ核の恐怖が北朝鮮から与えられたとき、日本の中でも(恐れの感情に基づいて)核武装の声が上がってくると書いた。こんなに短期間でその通りの現実になってしまったのは情けない。人間の感情の中で最もパワフルな感情は愛と同時に恐れである。





何故非核なのかもう一度考えようとその勢力は言う。それに対して、そういう論議を持ち出すこと自体がけしくりからんという対応が主流のように見える。あまりに感情的な対応だ。

国際関係論、政治力学論、軍事論として、核武装が如何に無効で有害か、しっかり現実論を構築してこなかったから、こういう及び腰の姿勢になる。核武装すべきだという論を叩きのめす絶好の機会なのに。

この際、そういう論は息を止めてやろうという姿勢が無いのが情けない。何であれ、どのように問題のある論でも封殺するべきでない。徹底的に論破することによってのみ封じることが出来る。元から断たなければならないのは悪臭だけではない。子供だって頭ごなしに叱ってそれで済むことなんてない。

アメリカのタカ派の中では、北朝鮮の核実験が起きた段階で既に「あんな遠くの面倒まで見ていられない。日本に核をくれてやれ。」「大体、そもそもすぐ近くのロシアも中国も持っている。インドもパキスタンも。北朝鮮のような国もすぐ傍にある。今まで何をのんびり非核などと言ってきたのだ。とっくに自分達で核武装するべきだったのだ。」と言う声が上がっている。

日本の中できちんと論じて息の根を止めておかなければ、やがて来るだろうアメリカからの圧力に全く抗し得ない。アメリカから有り難く核を分けてもらうことになる。

中川氏や麻生氏が言い出したタイミングから考えると、既にライス国務長官の訪日の際、現実的選択として考えろという圧力を受けたのかもしれない。それに拮抗できるものを彼ら自身が持っていなかったのかもしれない。

核武装論議は受けて立つ、今までそういう気構えも理論も築いてこなかったのだとしたら、平和ぼけと言われても仕方ない。日本の核武装は私達が思うよりずっと目前に迫っている問題かもしれない。日本でなければ出来ない国際貢献は、しっかりとした非核の現実論を構築すること、それに尽きる。
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by bs2005 | 2006-11-02 02:26 | TON同盟  

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