選択必修の自己矛盾

今、必修科目を履修していなかったという問題が連日ニュースになっている。痛ましいことに自殺された校長まで居る。今朝のニュースの段階で履修していなかった生徒は10万人を超えるという。ここまでの規模で起きていることを、道徳的に責めても解決にはならないだろう。明らかにここには構造的な問題が存在する。



そもそも必修とは何か?ある生徒はその科目を選んである生徒は選ばない、それが許される科目であれば、そもそもその科目は必ず修めなければならない科目ではないことになる。人によって取ったり取らなくてもいいものが何故必修と言えるのか?そもそも選択必修という概念そのものが自己矛盾している。

高校教育を終えた人間として、当然身につけるべき教養、それを必修させたいという文部省の思いは分るけれど、その思いを具体的に何故必修なのかというところで、きちんと検証していなかったから起きた問題のように思う。建前論だけで現場に押し付けてきたのではないか?

確かに人間としての教養は大事である。受験があるからと言って、そちらの方に目を奪われた教育であってはならない。

しかし、例えば高校で教えられている教科の内容が果たして、本当に全て必修のレベルであろうか。本当に必修のレベルであれば、取らなくても良い選択の扱いにならないはずである。

そして大人になった人、高校を卒業した人に訊きたい。高校で習ったそのどれだけが、人間として自分に必要なものだったか?大学で勉強するのに必要なものだったか?社会人として無くてはならない知識がどれだけあるか?そのどれだけを自分は身につけられたか?そのどれだけが今でも血肉となっていると言えるか?

世界史、日本史、地理という科目分けではなく、それぞれの分野で、これだけは最低限というレベルのものを社会教養科などという形で一つの学科にまとめて、それを必修させればよかったのではないか。それならば、全ての高校生が本当に学ぶべきことを学ぶ。どこまで身につくかは別の次元の問題だが。

それぞれの科目で盛り沢山の内容を強要、生徒を圧倒し、選択によってはそれは取らなくてもいいなどというおかしなことがまかり通ってきた構造的な問題である。そして、文部省の求める建前と大学受験の本音、それぞれがそこから逃げてきた構造が問題である。双方が何故を問わずに来たことのつけを今、子供達が支払わされている。

本質を見ずに、道徳論で責め立てて学校教育へのタガを更にきつく嵌め直しても、少子化の影響で受験生を呼び込もうと、受験科目を減らす大学が増えている以上、少ない限られた科目でますます専門化した受験知識獲得競争の激化を子供達は強いられる。

その一方でその必修?の課目の勉強で更に子供達を追い詰めることになるだけだろう。そして疲れた頭と心で本当に身に付くものがどれだけあろうか?知識が本当に身につくのは生き生きとした好奇心のあるときだけなのに。

本当に必要なのか、何故必要なのか、どこまで必要なのか、もう一度問い直すべきで、建前論の中で子供達を窒息させてはならない。
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by bs2005 | 2006-10-31 05:59 | 異論・曲論  

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