やりきれない簡単さ

今に始まったことではないけど、最近、命があまりにも簡単に奪われる。命が軽すぎる。子供が子供を殺す。そうしたときにワイドショーは加害者の状況を追い回すか、呆れたものでは被害者の状況をほじくり出したりしているようだ。

もっともっと深刻な問題が問われ、解決の道が問われているときに、マスコミがするべきことは全く違うところにある筈だ。報道人の使命は、噂好きな人間に餌を与えることではない筈だ。今、この社会の足元に火が点いているときに、余りに呑気なスタンスだと思う。



今の子供達が私達が子供だったころより、質が落ちているとは思わない。私の時代よりも良い面も沢山あると思う。ただやはり、命の重さという認識は、今の子供の方が大分希薄になってしまっているのではないか。そうだとしたら、それは大人の責任であり、社会の責任だ。

どうしてこうなってしまったのか、どうしたら、命の重さを伝えて行けるのか、こういう事件が起きたとき、そこに全ての意識は集中されるべきだ。一人一人が何をして行けるのか、真剣に考えるべきだ。

そうでなければ、自分の子供、孫、身近な子供がいつ殺されるか分らない、殺す側になってしまう可能性だってゼロではない筈だ。他人事として、ワイドショー的な興味に耽っている場合ではないと思う。

原因は沢山あるだろうし、複雑に絡みあっているだろうけど、憎しみをそのまま殺意に短絡させない道を何としても模索して行かなければならない。殺すことが自分の中のどろどろした思いを解決することには全くならない、むしろ逆なのだということをはっきり知らせて行かなければいけない。

人を憎んではいけない、殺してはいけないと教えることだけでは駄目なのだと思う。憎んではいけないけど、憎んでしまったときはどうするのか、その憎しみにどう向き合うべきなのか、今の子供はそういう本音の部分で受け止めてもらえていないのではないか。

人間て、そういう所あるよね、という受け止めに余りにも欠けているのではないだろうか。そして、どろどろした思いが行き場を失い、殺意という出口しか見えなくなってしまっているのではないだろうか。うつ病とか自殺以外には、、。

どろどろした思いは誰でもある。人間なら誰でもある。その前提が共有されていないのではないだろうか。話せば、煮詰まらないで済むことが、煮詰まる方向にしか向かっていないのではないだろうか。建前と無関心の狭間で、口にすることも出来ずに殺意に追い込まれているのではないだろうか。

私達の子供の頃だって、それがちゃんと伝えられていたかどうか疑問だけど、戦争で死んでしまった家族を悲しむ人が回りに居たり、祖父母の老い、死、兄弟の死、身体の弱い人の切なさ、必死に生きる思い、大事な人を失う悲しみ、そういうものに、もう少し生で触れる機会があった。

それが希薄になっている今、自分の中の弱さ、醜さをどう受け入れ、どう越えていくのか、子供が理解できるレベルで教えて行くことが必要な時代になって来ているのかもしれない。私達の時代のように、大人になるのを待っていられない時代になってしまったのかも知れない。
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by bs2005 | 2006-04-26 05:01 | 異論・曲論  

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