バシー海峡の悲劇 その3

バシー海峡の悲劇 その1
バシー海峡の悲劇 その2

          (参考文献 山本七平 『日本はなぜ敗れるのか』)

連載の今までの二つを読まずに来られた方も、出来たらこれだけ読んで頂けると嬉しいです。これだけを読んでも、悲劇そのものは分って頂けると思います。(じゃ、今までのは何だったんダ?!す、すみません!汗、汗、汗。)

葬り去られて来たこの悲劇を、一人でも多くの方にお伝えするのが、亡くなった方達への私なりの供養の形と思っています。




昭和18年10月、日本が緒戦の勝利にまだ酔っていた頃、小松真一氏(『慮人日記』著者)はこの海峡を渡った。当時の最優秀船三艘は、駆逐艦と航空機に護衛され、自らも対潜水艦用の砲を搭載しながら、三艘とも雷撃を受けた。小松氏の乗った船が無事助かったのは、奇跡的に魚雷が不発だったからである。

氏は他の船が魚雷を受け、沈没する現場に居た。そのうちの一つの船から乗っていた人々を救助する場で、自らの船も魚雷の攻撃を受けた。雷撃を受けてから沈没するまで3分30秒だったという。全員が脱出するのに充分な時間ではないが、一部の人間が脱出することは可能な時間だった。当時ですら、こんな状況だった。

ところが、これから半年後の19年4月、山本氏が乗る頃には、状況は大きく変わっていた。輸送する船は老朽船のみになっていたし、米軍の魚雷は高性能になっていたので、平均15秒で沈没した。轟音とともに水柱が立ち、水柱が消えたときには船も消えているという状況。救出者は普通ゼロ。3000人を満載した船で5人が奇跡的に助かったという例もあったという。

この老朽船がどんなにひどかったかといえば、その中の最たる船、山本氏の乗った貨物船は、最高速度5ノット半という戦場をうろうろすることは考えられない速度しか出せなくなっていた。逆にこの船は不思議に無事帰港する「奇蹟の船」だった。戦場に居るべき船でなかったからこそ、逆に高性能の魚雷の照準が合わなかったからではないかと言われている。

普通、この速度の船は廃船になる。外見も恐怖すべきボロ船、一見してスクラップだった。貨物船だから、3千人分のトイレはない。人の胸くらいの高さの角材に板を釘付けにしただけの粗末な小屋が甲板に便所として急造され、べとべとに汚れている。その便所に沢山の人が行列している。甲板から船倉への行列もひしめいている。

この船倉の割り当ては、一坪14人である。一坪というのは畳2畳の広さ、そこに14人が詰め込まれていたのである。二段のカイコ式になっているので、一段ずつ考えれば、一坪7人ではあるが、ただその船倉の高さはやっと胸までの二段であり、ひとたび船倉に入れば、直立することは出来ない。船倉はぎっしり積載された人間で蒸し風呂のようになっている。天井からは常に水滴が落ちる。すべてがぼーっとかすんでいる。誇張でなく、息が詰まる状況だったという。

その状況で全てのひとは思考力を失う。これが「死のベルトコンベアー」であるとは知りながら、まるで荷物のように詰め込まれた状況から一瞬でも早く解放されたくて、人々は早く出発してこの状況が終わってくれることを祈る、全くの思考停止の状態だった。

この「押し込み率」は、最悪といわれたあの悪名高いアウシュビッツの収容所の中でも、さらに最悪と言われた狂人房のスペース率と同じなのである。おそらくこれは、これ以上詰め込んだら人間が死んでしまうぎりぎりの限界なのだろう。

こういう悲惨な非人間的な輸送形態で、一兵卒から中小尉以下、大量の人々が送られた。佐官以上は全て飛行機で別途に送られて現地で待っていた。この悪夢のような輸送は現実に大規模に続行され、日本の船舶が実質的にゼロになるまで機械的に続けられ、ゼロになってやっと終わったのである。奇跡的に助かった人々には緘口令が敷かれていたという。

各隊は、佐官以上を先ず現地に送って「無事に着いただけの兵員」でひとまず部隊を編成し、その部隊の兵隊は複数の船に分散されて輸送される。一艘一艘はいろいろな部隊の兵隊によって混成されている。

次から次へと混成で送られる兵員が無事到着すれば、それを順次に加えて編成を完了するという方法が選ばれたのは、一つの師団がまるごと壊滅することを避けるための「危険の分散」であったことは明らかである。そしてまた、そういう方法が取られたこと自体が、全員の到着はおぼつかないという判断を大本営がしていたということになる。

砲なき砲兵、自動車なき自動車隊、航空機なき航空兵、それらが「死のベルトコンベアー」から奇跡的にこぼれ落ちて比島に到着して、最初に兵站でうける挨拶は「何だって大本営は、兵隊ばかりゾロゾロ送り込んでくるのだ。第一、糧秣がありゃしない、宿舎も無い!兵器!とんでもない。そんなものがあったら、既に到着した部隊を兵器なしで放り出しておくわけがあるまい!」というものだった。

このように全く成果を期待できない「死のベルトコンベアー」作戦は、船が実質的にゼロになって、輸送を続けたくともできない状況に至るまで、続行を強行された。

あらゆる方法を探究し、可能な方法論の全てを試みて、あの手が駄目ならこれ、この手が駄目ならあれと常に方法を変え、新しい方法を模索してきたアメリカ軍は、失敗した同じ作戦を執拗に繰り返すことはなかった。科学的に分析し、新しい勝利の作戦を常に探り続ける。

それに対して、日本軍は同じ型の突撃をバカの一つ覚えのように何度も機械的に繰り返し、自滅への道を突き進む。ひるがえって自らの意図を再確認し、新しい方法論を探求し、それに基づく組織を新たに作り直そうとしない。むしろ逆に、そういう弱気は許されず、そういうことを言うものは敗北主義という形になる。

その日本軍の出方が手に取るように分るアメリカ軍はただ、この海峡で待っていれば良かったのである。飛んで火に入る夏の虫そのままに、アウシュビッツ並みのすし詰め状態の中で亡くなっていった人々のことを思うと、ただただ、たまらない思いに駆られる。この人達の死が語られずに、知られることもなく、終わってしまっていいわけがない。それだけの思いで、私は、この私には手にあまるテーマについて、書き続けていると言っても過言ではない。

この余りにも非人道的、不合理な作戦に日本がのめりこんでいった事実の中には、今日にも通じるものを沢山含んでいると山本氏は指摘する。このバシー海峡の悲劇が殆ど語られることもなかったのは、死人に口なしという面が大きいが、同時に、これが日本の持つ本質的問題を表すものであるからこそ、人々は本能的に口を噤んでしまったのではないかとも氏は言われている。(続く)
[PR]

by bs2005 | 2006-04-12 03:54 | TON同盟  

<< マリアンの夢 危ない「もの忘れ」 >>