バージン・ロードの選択への提言

教会で結婚式を挙げる時に花嫁が歩くバージン・ロードで、父親がその手を取って、花嫁の手を花婿に手渡す光景は、余りにも当たり前だけど象徴的で感動的だ。うちの娘達もそうやって夫の手から、新郎に手渡された。



企業戦士の例にもれず、日本に居た頃は我が家も事実上母子家庭だった。土日も出勤し、夜は終電が終わってからの帰宅、子供たちの起きている顔もろくに見ていない。家にいるときは疲れ果てて、グーグー寝ている。アメリカでの生活がなければ、母子家庭と殆ど変わらないまま、結婚を迎えていただろう。

幸い、駐在生活の御蔭でそうはならなかったけど、年子で一番手がかかるときに夫の手をあてに出来なかったのは、かなりしんどかった。そう思うと、バージンロードで晴れ晴れとしている夫を見ながら、子育てを主にしたのはこっちだという思いもなかったわけではないけど、それがしきたり、当たり前と思っていたから、ま、仕方ないかと思っていた。

アメリカでも、父親が手を引かないこともないわけではない。ただ、それはきわめて特殊な場合だ。ドクター・ローラの身の上相談などでもよく聞く。実の父は、離婚後、養育料も払わず、誕生日もいいかげんな対応だった。父親らしいことは殆どしてもらっていない。母親の再婚した相手が、心を込めて自分を実の子のように育ててくれたから、自分は彼の方を父親と感じる。だけど、バージン・ロードをそちらに頼もうとしたら、実の父親がすごく怒っている。どうしたらよいか?

あるいは、刑務所に出たり入ったりとか、アル中で家族を振り回したとか、女遊びに狂っていたとか、家族を虐待していたとか、離婚していなくても、事実上、父親らしいことは何もしていない。生活は母親がひとりで支えた、あるいは祖父や叔父が力になってくれた、彼を父親と思えないのに、彼に頼まなければいけないのか?等々の相談だ。

そういうときに、ドクター・ローラの答はいつもと同様、明解で辛らつである。いわく、精子提供者が父親なのではない。その子を慈しみ、育てた人間こそがほんものの父親であり、精子提供者に何の遠慮も要らない。戸籍上の立場が何であれ、そういうほんものの父親に頼みなさい。そういう男の人が存在しなくて、母親が父親の代役も務めてきたのなら、母親に頼みなさい。単なる精子提供者にそれを要求する資格はない。父親として認められる為にはそれなりの努力が必要なのだから、、、と。

そういう相談が来る位、逆に言えば、生きていて問題がなければ本来父親がするものだ。父親が生きているのに、それをさせないということは、父親に対して父親失格を公的な場で宣告することに他ならない。それ位の重みのある神聖かつ真剣な選択である。

それが、日本の教会ではカジュアルな選択であると聞いて驚いた。花嫁の希望で、父でも母でも、自分だけでも良くて、全く気楽に選択できるものであるらしい。別に深い意味は全くないのだそうだ。日本で挙式した娘に初めて聞いて驚き、勿論冗談だけど、「エ?それでパパの方を選んだの?何でママじゃないノヨ~??!」って訊いたら、娘は笑いながら、「だって、父親の出番ってそこ位しかないと思ったんだもん。」と答えた。

親馬鹿だけどそれを聞いて、父親にそういう配慮が出来た娘を誇らしく思った。確かに、そこで認めてもらわなければ、子育てでは公的な場での父親の出番なんて殆どない。基本的には母親の出番ばかりだ。そこで出してもらわなければ、可哀想すぎる。

企業戦士となって働かざるを得ない日本、伝統的にも「風呂、めし、寝る」位しか言わず、家では何もしないという父親もつい最近までは当たり前だった。表面的には無口、無関心な父親が多いかも知れない。奥さんより自分の母親の言いなりというマザコンで、自分の家庭に存在感の薄かった父親も居るかもしれない。父として夫として欠点だらけの人も居るかもしれない。そうでなくても、娘と母親との結びつきの方が強いかもしれない。家に給料を運んだ以外は何もしていないという父親も多いかもしれない。

でも、虐待とか、不倫を繰り返すとか、何かの中毒とか、非人道的だったとか、そういう家庭を激烈に破壊するようなひどい父親でなかったのなら、父親を選んで欲しい。カジュアルに母親を選んで欲しくない。完全な人間は居ない。同様に、完全な父親もいない。不満を言っていったら切りがない。不完全そのものでも、その人なりにその娘を愛していたのなら、たとえ家に給料を入れた以外は全て落第という父親でも選んであげて欲しい。。それだけでも大変なことだ。

家族の生活を支えるために、父親が職場で耐えた精神的・肉体的苦痛はどれだけのものだったことだろう。耐えがたきを耐え、忍び難きを忍ぶという場面もあっただろう。勿論、そればかりでなく楽しいことも沢山あったかもしれないけど、それだけである筈がない。不当な扱い、やるせない思いも沢山したことだろう。そうやって家族を支えてくれたことだけを考えても、たった一つの晴れやかな出番を父親から奪うことはしないで欲しい。娘を愛した父親のその愛情を認めてあげて欲しい。正にその為のものでもある筈だ。

たとえ評価できるのはほんのわずかだとしても、そこをきちんと評価してあげて欲しい。その感覚を持たずに、夫となる人を新婚の甘い時代が終わったときに、どうやって評価していけるのだろう。相手に求めるばかりにならないだろうか。相手を評価し、感謝しようとする姿勢はどこから出てくるのだろう。父親をどう評価するかは、夫を評価する目に必ずなる。不完全であるところばかりに目を向けて行くだろう。

これから結婚する娘さん、あるいは結婚する娘さんの居るお母さん達、どうかどうか、その出番は父親に頼んでもらいたい。日本ではカジュアルな選択であるらしいけど、カジュアルであって良い筈がない。深い意味のあることだ。たった一度の出番を奪わないであげてほしい。それを正当な理由なく取り上げられた父親を式場で見ているのは切な過ぎる。どうか考えてあげて欲しい。
[PR]

by bs2005 | 2006-03-28 08:16 | 異論・曲論  

<< 桜の花越しに、、 桜の日本を後に、、 >>