「縁」のダイナミズムの中で

人間は色々な縁の産物である。良い縁もあれば悪い縁もあるが、その全てを集約したものがその人を形づくる。

一番最初の縁、つまり、親との縁は決定的に重要である。往々にして、親との縁が良くないと、それ以降も、意図しなくても悪い縁、悪い縁とつながって行ってしまう事がある。自分にとって本当に良い縁か悪い縁かの判断が、出来なくなってしまう為でもあるように思う。

そういう悪い縁によって形成されてしまった自分を、良い縁に向かって踏み出すのすら苦労する人もいる。その反対に、最初の縁に恵まれて、自分では意識しなくても良い縁、良い縁とつなげて行ける人もいる。それがどんなに幸運かも気付かずに。

自分の人生が順調で、大きい過ちも犯さず生きてこられたとしたら、自分の恵まれた縁というものを振り返ってみる、そうして感謝の気持ちとともに、自分を形成してきたものが、そういう恵まれた縁なのだということに、謙虚な気持ちを持つべきだろう。

過ちを犯した人を、高みに立って裁くべきではない。その人が恵まれなかった良い縁、その人が過ちを犯さざるを得ない所まで追い込まれた、悪い縁への想像を持つべきである。自分が全く同じ縁の中で形成されて来たとしたら、自分は同じ過ちを犯さなかっただろうかという謙虚さを失うべきでない。

ひと昔前の話だが、私はある人から、理不尽な仕打ちの数々を、ただひたすら耐えてきた事を打ち明けられた。肉体への暴力ではなかったけど、女性として耐えられない、二重三重に屈辱的な形だった。彼女はそれを実に上手に隠していたので、はたから見たら、容貌にも恵まれ、彼女ほど幸せに明るく生きている人は居ない位に見えていたのだが。

その人が過ちを犯した。それを知った人達は後ろ指を差し、その人を村八分にした。目に見えぬ石を、彼女に向かって投げた。見えない石だけど、それはあまりに露骨で、彼女をずたずたに切り裂いた。彼女が必死で保ってきた明るさも、もはや演じられない位に。

その生活に勇気を持って終止符を打てなかった彼女を責めることは出来ない。彼女は父親によって虐待を受けて育った人でもあった。虐待を虐待として認識することすら出来ずに、それを受け入れて育った人だった。彼女は不当な仕打ちを受け入れるのみならず、自分に不当な仕打ちをする相手であっても、愛するより他に生き残れる道がないことを、幼い頃から学んで来てしまったのだ。悪いのは自分と思うように作り上げられて来ていた。

その理不尽に20年近く耐えてきた彼女が、その哀しみ、苦しみから逃れようとして犯した過ちは愚かだったかもしれない。弱かったかもしれない。しかし、そういう縁によって自分も形成されて来ていたら、自分はそういう過ちを犯さなかったと言い切れるだろうか。言い切れるとしたら、よほど傲慢な人か、人間の根源的姿を分かっていない人だろう。

後ろ指を差してはばかることのなかった人達は、彼女を形成してきた縁がどんなものだったか知らなかった。ただ、結果だけを見て彼女に石を投げた。たとえ、深い事情を知らなくても、過ちの裏には、そういう縁から生じてしまう弱さ、愚かさ、哀しさがあるのだという想像力を全く持たない人達だった。彼女の表面だけを見ていた。

その人達は、ブランドに身をやつし、高級な化粧品を使い、エステにも通い、美容に心を配る人達だったけど、その想像力のなさ、人間の根源的弱さ、愚かさへの理解のなさ、その事によって、自分達の醜さを余すところなく見せてしまった。「罪を憎んで人を憎まず」ーこの言葉の意味も、深さも全く理解できない愚かさも同時に。

私はどのような愚かな弱い人でも、寄り添う気持ちがある。人間は根源的にそういうものだからだ。ただ、「自分は正しい、自分は善だ、自分は過ちを犯したことも犯すこともないだろう」と、高みに立って人を裁く人だけは、軽蔑を禁じ得ない。そういう人は、自分の弱さ、愚かさにのたうちまわる人より、本当ははるかに愚かなのだ。人間がそういうものだという事すら見えていないのだから。

人を裁き、後ろ指を差す人々、、、もっとも醜く、愚かな人々だ。たとえ友人を全部失っても、私はこういう輩と友達にはなりたくないという激しい気持ちがある。もう何年も前の事なのに、私の生々しい怒りは消えない。その仕打ちによって、その人の心に出来た空洞は今だに埋っていないからだ。
[PR]

by bs2005 | 2005-07-27 23:49 | 異論・曲論  

<< 「世界ってどうしてこう美しいの... 医療者の持つ力 >>