日本の記者のだらしなさ

麻生さんは長崎慰霊祭での「核廃絶に向けてあらゆる努力を」と言った舌の根も乾かない内に、アメリカに核の不先制使用宣言を求めることに関して質問されると、旧態以前の核の傘論、核の抑止効果論を振り回した。

数年前に核保有の議論もされるべきと言った彼が、その発言の撤回も反省もしていないのだから、彼があの慰霊祭で言っていた言葉を本気にしていた国民は居ないだろうけれど、そういう質問をしたならば、何故もっと詰め寄らないのだろう。

核の抑止効果そのものが既に失われていると米の元高官は言っている。それよりもテロリストなどに使われてしまう可能性の方を危惧している。そういう意見に関してはどう思うのか。

核の傘より非核の傘という運動を始めている国々もある。それに対してどう思うのか。

*オバマ大統領のプラハでの演説が彼が現実的にはどういうことを考え危惧し、現実的にはどういう長期的展望を持って進ませようとしているのか、それを麻生さんはどう理論的に推察しているのか。

*それに対して被爆国として、廃絶に向けてどういう現実的理論的長期的展望の提起の用意があるのか。慰霊祭で「ありとあらゆる努力」という発言を支える具体的内容、現実的計画を持っているのか?等々、等々。

いくらでも詰め寄って訊くべきことはあった筈だ。アメリカの記者会見では記者が大統領や政府の高官に理論的に詰め寄って、堂々の論陣展開を行うことも珍しくない。見ていてもスリリングだ。こういう過程を通して政治家の方も、もっと詰めて考えて行く。議論は政治家や国会だけに任せていれば良いという姿勢は無い。

日本の記者会見は、お伺いを立てるだけか、詰め寄っても感情論で詰め寄るだけ。もっと背骨のしゃんとした記者は居ないのだろうか。感情論で詰め寄る暇があるのなら、もう少し出来ることはある筈だ。

記者だけの責任でもないだろう。記者会見のあり方を変えて行く、もっと根本的には新聞社、テレビ会社等々の企業的体質そのものから来ているのだろう。そうだとしても、やはり記者にはもっと気骨を持ってもらいたい。政治家だけでなく、記者には記者の立場からの核廃絶に向かっての動きがあるべきだ。被爆国の記者としての責任がある筈だ。報道を担う会社にもその責任がある。

理想論、情緒に訴えるだけではもう間に合わないところまで来ているという危惧に支えられて、オバマはあの演説を行っている。核兵器を使用した唯一の国としての道義的責任まで踏み込んで触れた所に彼の理想主義が見られるとは言え、それだけではない。自分の生きている間に実現する展望の低さを伝えるところに彼の現実感覚も見られる。

オバマの現実主義、国益を代表しての信念を日本の政治家は理解していないから、理想論では慰霊祭のように語りながら、現実では腰砕けの非核論になる。それに対峙する記者も同様に理解していないから突っ込めないのだろう。報道がこのレベルでは、日本に本当のディベートが育つのはいつのことか。
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by bs2005 | 2009-08-10 03:26 | 異論・曲論  

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