「招待」への違和感

最近、あちこちで広島、長崎へオバマを招待しようという動きがみられる。オバマに招待状を送るのは構わないけれど、どうしてそれより先に自国の政府に米政府への公式要請を求めようとしないのか。

これだけ声が高まっているのだから、政府も陰では招待伺いのような打診を行っているかもしれない。11月訪日の機会にでも、、と。オバマがその際は広島、長崎に来る可能性は高いだろう。

でも、招待されたからと言って来る、あるいは彼が自発的に来ること以上に、日本が堂々と正式に国際社会の真っ只中で、招待ではなく訪問を要請することの意義が見失われているように思われて仕方ない。招待と要請の間には決定的違いがある筈だ。来れば良いというものじゃない。勿論、来るだけでも大きな意義があるとしても。

オバマがプラハで演説を行って以来、招待と言い出している人々が見誤っている、もしくは見失っていることがあるようにも思う。オバマは理想主義であり、人道主義でもあるけれど、それだけの人ではない。もっと徹底した現実主義者でもある。理想を本気で実現しようと思う人間だけが持つ現実感覚を持っている。

今、核を廃絶の方向に向かって動かしていかない限り、核が使われ、アメリカが真っ先にその犠牲になる可能性が非常に高いことを彼が危惧しているからこその演説である。その側面が見失われてはいけない。彼はアメリカの国益を代表する存在としてあの演説を行ったのである。個人としての理想主義からだけではない。

民間の人が招待というのは構わないけれど、政府はそこをきちんと見据えて、それを要請する崇高な義務を持った国として広島、長崎への訪問を要請するべきなのである。アメリカ大統領だけでなく、核を所有する全ての国に対して、核廃絶を本気で進める一歩としての広島、長崎訪問を、人道主義の立場からだけでなく、世界中の国にとっての国益であることを示して行かなければならない。

私は政府がきちんとそういう態度を堂々と国連なりの場で示す前に、オバマが招待を受ける形で来てしまうのではないかと目下ハラハラしている。日本がその存在意義、イニシアチブを国際社会に示す絶好の機会を失ってしまいそうだから。下手をするとテロリストによって、その前に核攻撃が行われてしまうことだってあり得ないことではないと思えば余計焦燥を覚える。

私はオバマに「訪問して頂きたい」のではない。オバマは来るべきなのである。彼の理想の実現の為に、同時に、彼が代表する国の国益の為に。世界中の国の現実的国益の為に。

民間はともかく、政府は主権を持った国の代表として、下からお願いをする立場とは明確に違う立場に立つべきである。しかし、重ねて言うが、これは被爆国としての権利ではなく義務としてである。こんなにも多くの人々を原爆で死なせてしまった責任は無謀な戦争をしたこの国にもあるのだから。こういう発想をきちんと出来る政治家が居ない、それがこの国の悲劇なのだけど、、、。



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by bs2005 | 2009-08-09 08:20 | TON同盟  

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